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翌日、周藤の奥さん──カオリさん──が有休を取ってくれて俺を家まで迎えに来てくれた。
有休を取ったと言われてしまったら、申し訳なくて行くしかなくなってしまう。
憂鬱な気分ダダ漏れで外出準備をして、埃まみれの保険証やお薬手帳なんかを持って、財布と充電が殆どない携帯をポケットに突っ込み、奥さんの運転する車の助手席にお邪魔した。
「……あの、周藤……あっ、えっと、」
「ああ、ヒロくん?今日は仕事なのよ。どうしても休めなかったらしくて。だから代わりに私が!数回しか面識ないのに無理矢理連れ出してごめんなさいね」
ヒロくん、とは周藤の事だ。
カオリさんも苗字が周藤な事を思い出して言い淀んだ俺の心を見透かしたかのように答えてくれた。
「緊張してる?病院」
「……いえ、……いや、そう、かもしれません……」
久しぶりに周藤以外の人間と話す上に外に出る。
緊張しかしていない。
心做しか車にも酔ってきた。
「気分悪くなったらすぐに言ってね」
「……ありがとうございます」
姉御肌らしいカオリさんは凄く頼りになるオーラびんびんで、思わず身体を預けたくなる。
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カオリさんの車から流れる陽気なラジオの声に耳を傾けていたらいつの間にか眠ってしまっていたらしい。
着いたわよ、という彼女の声で飛び起きた。
「ここが待合室。で、呼ばれたら番号通りの診察室に行きましょうね。初診の時は私も着いていくわ」
院内を簡単に説明してくれ、診察時はカオリさんがそばに居てくれる事になった。
そこまでしてもらうのは流石に申し訳なかったが、代わりに症状を説明してくれるらしく、喋る事に自信が無かった俺はその行為をありがたく受け取ることにした。
「美澄(みすみ)さーん、美澄 要さーん」
名前を呼ばれた途端に緊張が増し、体固まる。
それにきづいたカオリさんは、俺の腕を優しく掴む。
「呼ばれたわね。行きましょ」
柔らかい女の人の力で引っ張られ、とうとう診察室に入ってしまった。
「よろしくお願いします」
カオリさんの声に、医師らしき若い男柔和な性はこちらを振り返り「かけてください」と穏やかに言った。
俺は対面して丸椅子に、カオリさんはその隣のパイプ椅子に座った。
医師はこちらをゆっくり振り返る。
俺はなんとなく、目を合わせたくなくて視線を下げ彼の首から下がる聴診器を見つめた。
一通りカオリさんが病状を話すと、黙って聞いていた医師は言葉を発した。
「では、美澄さんと2人にしてもらえますか」
「えっ」
「えっ」
俺とカオリさんは思わぬ台詞に驚き、俺は思わず医者の顔を見てしまった。
「2人でお話させて頂きたいのですが。私はアルファですが、隣室にベータの看護師が控えております。周藤さんには診察室を出たところにあるソファでお待ちください」
「いやでも先生、要くんは初めてですし……」
カオリさんが言うと、医者は穏やかにカオリさんを見る。
「初めてだから本人からお話をお聞きしたいのです。彼でなければ言えない事もあるでしょう。プライバシーは守りたいので」
カオリさんは何も言えなくなり俺を見て「大丈夫?」と声をかけてくれた。
これ以上彼女を困らせる訳にはいかないとおもい、俺は「大丈夫です」と返して、カオリさんは出ていった。
看護師も気を使って隣室に移動してしまい、完全に俺と先生の2人きりだ。
一気に心拍数が増して、目を合わせられなくなる。
「美澄さん。周藤さんから大体の身体的病状はお聞きしました」
「……」
「私は、ここでオメガも担当しておりますが実は精神科も兼任しております。なので今度は、美澄さんのお話をお聞きしたいのですが、よろしいですか?」
「……」
よろしくないです、帰ります。
そう言ってしまいたかった。言えるわけないけれど。
「美澄さん。ゆっくりでかまいません。この部屋が心地悪ければ別の診察室を開けさせます」
「……いえ、ここで、かまいません」
有無を言わさぬその言い方では俺はこう言うしかなくなる。
震える手と、冷や汗を感じつつ、目を瞑る。
「ゆっくりでかまいません。何も気にせず、こうなってしまった原因を大まかに。いちばん辛いと思うこと、苦しいと思うことを言える範囲で教えてください。喋り方も気にせずに、思いついた言葉を吐き出すだけでもかまいません」
医師は穏やかに言う。
「……あの、」
「はい」
すかさず相槌を打ってくれる。
「話したくない時は、……どうしたらいいですか」
俺の言葉に、先生はキョトンとする。
睨まれるかな、なんて思って俯いていたら頭上で「ふふ、」という笑い声が聞こえて思わず顔を上げた。
「あ、すみません。……正直に言っていただけて嬉しいです。では今日はここまでにしましょうか」
「え?いいんですか……?」
自分で言ったものの、そんなあっさり聞いてくれるとは思わなかったので驚くと、先生は笑顔のまま「はい」と答えた。
「言えないのではなく、言いたくないのであれば仕方ありません。無理に聞き出してすぐに回復するような事でもありませんし」
随分とあっさりしているんだな、と思いつつもしつこく聞かれなくて安心した。
「ではお薬は2週間分だけ出しておきます。2週間後必ずまたここに来てください。できますか?」
「……なんの、おくすりですか?」
「胃腸を整える薬と、吐き気止めです」
「え?」
思ったより普通の薬で、俺はまた驚いた。
こういう時って、無駄にホルモンを整える薬とか、精神安定剤的なものを出されると思ってた……
「美澄さんは病気ではありませんから、無駄なものを出す必要無いです。それとも欲しいんですか?」
穏やかに見つめて問われる。
「……い、いえ、飲みたくはないんですけど……なんか、もっと、仰々しい薬を飲まされるんだと思ってたので……ビックリしただけです……」
そう呟くと、先生はまたクスクス笑う。
笑った顔をまじまじ見つめると、きづいた先生は僅かに耳を赤くした。
「……美澄さんはまず、ご飯が食べられるようにならなければお話になりません。どれだけ薬を飲んでも、食べて眠れるようにならなければ意味が無いので。まずはそこから練習しましょう」
「……はい」
「今、おひとり暮らしですか?」
「……え?そう、……です」
本当は違う、……違うと言いたかった。
今住んでる家は康祐さんと住んで5年経っていた。
いや、正確には4年半だ。
一人暮らしになってしまった。
「……おひとりでお薬の管理や食事の準備できますか?そばに御家族や頼れる人はいますか?」
家族も頼れる人も、失いました。
そう言ったら先生は困るんだろうな。
「……います」
ぼんやりそう答えると、先生は怪訝そうに問うてくる。
「誰ですか」
「……ともだち」
頭に浮かんだのは周藤とカオリさんだった。
でも俺は頼るつもりは無い。
頼れる人がいないなんて言ってしまったら、入院なんて言われそうで嫌だった。
俺はあの家に帰りたいのだ。
生きるも死ぬもあの家で、康祐さんと過ごしたあの家で息をしたい。
康祐さんに、会いたい─……
「……美澄さん」
「……、あれ、ごめ、っごめんなさい……、」
いつの間にか、ぽろぽろとこぼれ落ちる涙に驚き、慌てて袖で拭う。
けれども零れ落ちてしまう。
どうしよう、止めなければ、先生が困ってしまう。
「美澄さん」
「へ」
ぽんぽん、と優しく頭を撫でられる。
その手はまるで、康祐さんのようで思わず顔を上げてしまった。
康祐さんの手に似ていた。
あの、慈愛に満ちた優しい手。
温かくて、愛に溢れるあの掌。
もう二度と触れられないあの手。
目の前で焼かれていったあの手。
染み付いた火葬場の臭いのせいで、肉なんて食べられやしなかった。
肉体は儚い。すぐに腐って燃えてゆく。
残った骨さえ拾う立場に居なかった俺は、黙って全てを遠くから見ているしか無かった。
誰よりも近くにいたのは俺なのに。
オメガの存在を認めてもらえていなかった俺は、康祐さんの親から嫌われていた。
死に目に会うことさえも出来なくて、泣き崩れることも出来なかった。
家族じゃない俺には何も出来なかった。
急速に体が冷えていく気がした。
胃の中がかき混ぜられているかのような激痛に、思わずえづく。
そのまま椅子から崩れ落ち、息が吸えなくなった。
「……ぁ゛……っ、ひゅ、」
びくり、と体を震わせびしゃりと嘔吐してしまう。
「美澄さん。大丈夫です、全部出してしまいましょう」
先生の声が遠くで聞こえる。
康祐さんを想い、頭が真っ白になってゆく。
体だけはこわいほど震えていて、呼吸が整わない。
遠くで先生が俺を支えながら看護師を呼び、腕に何かを刺していた。
その間も先生は俺の肩を抱き支えて、こえをかけてくれていたようなきがした。
段々と意識が遠のき、視界がブラックアウトした。
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