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「未練がましく目で追うとんな」
同僚の辛辣な一言で、また目で追ってしまっていたことに気づく。
視線の先は、入社して以来何年も片想いを続けた先輩。先輩ははなから智のことなど眼中になく、昨年めでたく結婚した新婚さんである。
目で追ってしまうのはつい癖で。その華やかな容姿、はつらつとした立ち居振る舞い、朗らかな表情。視界の中に入れていたいと思ってしまうのも無理はない。しかしその視線に今でも同じ感情が伴っているかというと、決してそうではない。なぜなら、その感情が向かうべき方向は、今や別のところにあるのだから。
「えーちゃんお帰り。今日も遅かったな」
帰宅すると、空腹を促す良い香りとともに、くしゃっと崩れた笑顔が迎える。
「ただいま帰りました」
「遅うまでお疲れさん。すぐ飯にしよ」
そう言ってまたすぐキッチンへと戻っていったハルは、智の恋人。と呼ぶのも烏滸がましいかな、なんて智はいつも遠慮してしまう。まだまだ胸を張って恋人と名乗ることができない。
ハルは家事全般をこなすデキた嫁であり、頼りない智の尻を叩いて叱咤する母親であり、ベッドではこれ以上ないぐらいに優しく抱いてくれる彼氏であり、無からあらゆるものを創造したり智の心に不思議な変化を与えてくれたりする魔法使いでもある。
「春キャベツですね」
食卓には春キャベツのサラダがまるでメインディッシュのように、大皿に盛られ中央に鎮座していた。
「うん。もうそんな時期やねんなあ」
口に入れると甘く柔らかな食感が広がった。
ということは、二人で暮らし初めて半年経ったということになる。めまぐるしかったなあ、と智は感慨に耽る。何しろまともに誰かと交際することすら初めてに等しかった智である。何もかもが初めてづくしで、毎日がいっぱいいっぱいだ。
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