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「来たで!」
満面の笑みでそう言うと、ハルはぶつかるように勢い良く智に飛びつき、背伸びをしてキスした。智は体当たりのような衝撃に、思わずよろける。
「あ、ごめんなさい、嫌な思い出の歌なのに」
「ううん。えーちゃんやったらいくらでも歌て。歌われるたんびにこないして飛んでくるから」
子どもみたいにはしゃぐハルに、智もつられて笑ってしまう。
「ハルさんにそばに来て欲しいとき、この歌を歌えばいいんですね」
「せやな」
「ならずっと歌ってなきゃ……」
「ん?」
「いえ、何でもないです」
「まあでも、そんな歌歌う機会もあげへんけどなあ」
「どういうことです?」
「歌うまでもなく、ずっとへばりついといたるってこと」
そう言ってぎゅっと手を握り、智を見つめるハルの視線はあたたかく優しい。やっぱり春の風みたいだな、と智は思う。
「ほんとに? 約束ですよ?」
「ん」
実らないとわかっていながら、行き場のない想いを抱え続けていた長い冬を経ての、雪解け、そして春の訪れ。智は季節の移り変わりと、自身の身の上を重ねていた。
季節としての春はまだ遠そうだけれど、智はもうとっくにこのあたたかさで満たされているんだなあと思って、ハルに身を預けた。
ハルは花見に赴く二人を想像した。春爛漫、さまざまな花が我こそはと咲き競う春の小径を、ゆっくりを歩く二人。智はいきいきと輝くいのちたち一つ一つに心打たれ、目で追うのに忙しい。きっとハルの存在なんかしばし忘れてしまうぐらいに。
美しいものを目で追ってしまうのが智の癖なのは、ハルももうじゅうぶん知っている。智がそうやって夢中になっている様子を見るのも、ハルにとっては楽しいのだ。幼い子が何もかも忘れて、夢中で電車や昆虫を眺め続けるような、そんな愛らしさを覚えるのだ。
「お花見、絶対行きましょうね」
「ん」
春よ来い、早く来い。
【おわり】
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