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ひとりでできるよ
この日は二年ぶりに忘年会が催された。ずっとなければよかったのにな、と智は気が重い。
まだまだ前時代的な風習の残る社の飲み会は、上司が若い衆に飲ませる悪しき習慣が残る。下戸の智にとってはずっと未来永劫中止のままでよかった。
しかしそろそろ”若い衆”から卒業しつつある智は、以前ほど酒を勧められることはなくなっていた。代わりに後輩の救済に励んでいた。――かつて智が救われたように。
しかし最近の若者は強かった。
「部長、それパワハラですよ!」
毅然とした態度で断っている。智はそんな場面を見て胸を撫で下ろした。そうだ、酒は飲みたい者だけが飲めばいい。
「えーちゃん! 今年もお疲れ~」
はちきれんばかりの笑顔でそう声を掛けてきたのは、かつて救ってくれた先輩・椚田だ。
「お疲れ様です! 今年も一年お世話になりました」
智が無茶に飲まされそうになっていたとき、颯爽と助けてくれたのが椚田だった。そしてそんな彼に心奪われたのだった。
「どしたん、ニヤニヤして」
「あ、ちょっと昔のことを思い出してました」
「何なに~? 愛するダーリンのこと?」
「ち、違いますよ!」
智にとって大きな変化が訪れた年だった。長い椚田への片想いに終止符を打ち、何年かぶりの恋人が出来たからだ。
「ハルは家で待ってんの?」
「はい」
「カァー! ええ嫁やっとんなあハルぅ! ほな早めに帰ったりぃや、俺もぼちぼちお暇したいと思ってて……一緒に抜けよっか」
「そうですね」
駅まで二人で歩く。少し前なら天に昇りそうなシチュエーションだ。けれどももう、あの頃のような高揚感はない。椚田のことは今でも尊敬する、憧れの先輩ではあるが、それ以上でもそれ以下でもなくなった。
「で? ハルとは上手いこといってんの?」
「……、まあ」
「何その間」
「あ、いえ」
「何かあったら言いや! 俺がハルに説教したるからな」
椚田とハルは無二の親友である。ハルのことを『優良物件』としてお勧めしてきたのも椚田だった。
「大丈夫です、何もないです、逆に僕が……」
「えーちゃんが?」
「至らなすぎて……」
「プッ」
「?」
「いやごめん、えーちゃんらしいなって」
悲壮になっている智を見ていて、椚田が噴きだしてしまった。
「そんなこと気にせんでも、ハルはそのまんまのえーちゃんが好きやと思うけどな」
「そう、でしょうか」
「心配やったらそのまんまハルに言うてみたらええねん」
「……」
「ほなお互い来年もラブラブで! 良いお年を!」
「良いお年を」
椚田は足取り軽く、同じく愛する人が待つ新居へと帰っていった。
このままで、本当にいいのだろうか。こんなに全て任せきりの甘えきり、おんぶにだっこで。電車に揺られながら智はずっとそんなことを考えていた。いや、今に始まったことではない。付き合いだしてからずっと脳裏にまとわりついている。
「お帰り」
「起きてたんですか」
「ん、今から風呂入って寝よかなと思てたとこ」
日付が変わろうという時刻。普段なら二人でもう眠りについている頃合いだ。
「待っててくれたんですか?」
「ん? ああ、まあいろいろやることもあったし?」
ハルはふい、と背を向けた。
「ただいま帰りました」
その背中を、智は抱きしめた。
「ん」
微笑んだハルが振り返って顎を突き出して、二人の唇が重なった。
だがその後、ハルが風呂から出てきても、智はリビングにいた。ソファに座ってぼんやりしている。
「えーちゃん、寝えへんのか」
「あ! ね、寝ます」
「もしかして風呂待ってた? ごめん」
「いいえ」
椚田に言われたことを考えていたのだ。心配ならそのままハルに話してみろ、と言われたのを。
「何か心配事?」
ハルが智の隣にぼすんと座ってきて、顔をのぞき込む。風呂上がりのハルからはボディソープやシャンプーの良い香り。まだタオルドライしかしていない髪は完全に乾いておらず、つやつやとしている。それを間近に見ていると、智は妙な感覚に襲われた。
近頃、おかしい。
ハルに対して、以前とは違うむず痒いような気持ちになることがある。魔法の手を持つ、優しい彼。それ以外に、なんともよくわからないものを、ハルから感じるようになってきた。
「えーちゃん?」
「あ、ごめんなさい、ぼーっとして」
「や、かまへんけど、心配なるやん。何かあったんかなって。飲み会で何かされたんか?」
「な、何もないですよ、そんなんじゃないんで、ほんとに」
「そう? やったらええけど……この頃よう思い詰めたような顔してるから。無理強いはせえへんけど、気ぃ向いたら話してな」
やはりハルは勘づいていた。そして強要はしない。ハルのこういうところも智は好きであると同時に、太刀打ちできないなあと思うことしきりだ。
「……あの、ね」
「うん?!」
智の口から「あのね」だなんて言葉を聞いたことがなく、いきなり不意打ちで可愛すぎて、ハルは軽くパニックになった。
「ハルさんって、こんなに完璧なのにどうして僕なんですか」
目をカッと見開いて、固唾を呑んで次の言葉を待っていたハルは、その言葉を聞いて大げさに脱力した。
「なんや……そんなことかいな……」
「そんなことって」
「俺は全然完璧ちゃうし、俺が誰選んでも俺の勝手やろ」
「だって、いつも思ってしまうんです、僕はいっつもハルさんに何でもしてもらってばかりで、なんにもしてあげられないって。完璧で優しくてかっこいいハルさんは自慢の恋人だけど、一緒にいると僕のちっぽけさが余計に悪目立ちするっていうか」
「……へぇ……」
褒められた部分はとても嬉し恥ずかしい気持ちだったが、その前後がよろしくない。ハルは微妙な相づちを返した。
「ダメですね、ほんとにいつも、劣等感を抱いてばかりです」
ハルの表情はみるみるつまらなそうなものに変わってゆく。それはもう、智にだってすぐわかるほどに。
「……つまらない話をしてごめんなさい」
「ほんまつまらんな」
「っ、すみません……」
「で、えーちゃんはどないしたいん」
「え?」
「一緒におってしんどいって言うなら、もう一緒にはおりたないって? 別れたいん?」
全く思ってもみないことを言われて、智は焦り出す。
「い、いいえ、そんなこと、そんな、別れるだなんて」
ハルのいない毎日を想像しそうになるけれど、想像したくなくて、ふるふると小刻みに首を振る。
「んじゃ俺がもっとアカン奴になったらええん?」
それも違う。智はまた首を振った。
「どうしたらいいんでしょうか、僕どこを直せば良いでしょう、教えてください、可能な限り善処します」
「気にせんこっちゃな」
「そんな、身も蓋もない」
簡単に言ってくれるな、それができないから悩んでいるというのに。智は苛立ちすら覚えると同時に、やはり根本から考え方が違う人にはわかってもらえないのだ、と落胆した。
するとそれまで冷たかったハルの口調と表情がふっと和らいだ。
「なあえーちゃん、俺かてえーちゃん見てたら俺もまだまだやなあって思う時あんねんで」
「え? そんな、まさか」
「真面目でコツコツとか絶対俺無理やし。俺は頭で考えるより先行動してまうけど、えーちゃんはちゃうやん」
考えずに行動してこれなら充分じゃないか、と智は思ったが、それでもハルが智に対してそんな風に思っているとは意外だった。
「でも俺はーえちゃんみたいに、だから僕はだめな奴なんだ~ウジウジ、とは思わんけどな」
「えっ」
「そこが俺にない、えーちゃんのええとこやねんなあ、って、だから好きなんやなあ、って、惚れ直すねん」
「惚れ直す」
「ん。もともと好きやのにもっと好きになること」
「意味はわかります」
「ほんであれやで、もし俺と別れて別の奴と付き合うことになったって、劣等感は消えへんで」
智は話の内容よりも、「俺と別れて別の奴と付き合う」という一部分だけにひどく動揺してしまう。例え仮定とはいえ、ハルの口からそんな言葉が出ただけで、焦り、混乱する。
「別れないし、他の誰かと付き合うのもイヤです」
「なっ……例え話やん、な?」
智が今にも泣き出しそうに、この世の終わりのような悲壮な顔になっているのを見て、ハルも慌てて智の肩を抱き寄せた。
「俺かて別れるなんて考えてへん、けど、俺とおってえーちゃんが辛いんやったら離れる覚悟もあることだけ、わかっといて」
「イヤだ、僕がこの先もし別れたいって言っても止めてください」
「無茶苦茶言いよるな……ほんまに扱いにくい」
大げさにため息をつかれて、智はまたも馬鹿なことを言ってしまったとハッとした。
「あ……ごめん、なさ」
「こんな気難しいこぐまちゃんを手なずけられんのは俺ぐらいやで」
ハルの口調が急に甘くなり、智は申し訳なさで見ることが出来なくなっていたハルの顔を見た。口の片端だけを上げていたずらっぽく笑う、いつも智をからかうときの顔。いつもなら憎らしく思うその表情が、この時ばかりは智の心を和らげた。
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