ひとりでできるよ

2/3
前へ
/38ページ
次へ
「おはようございま……わあ」  年末年始の休暇に入った智はこの日、いつもより遅く起きた。寝ぼけ眼で見たリビングは、テーブルの上に椅子が上げられ、ソファはバルコニーに出され、畳は外して立てかけられていた。 「おはよ」  振り返ったハルは手にははたきを持ち、顔の下半分を三角に折ったスカーフで覆っていた。 「大掃除ですか」 「ん。今年の汚れ、今年のうちに、ってな」 「僕もやります」 「先飯食いな」 「はい、自分でやりますね」  ハルは掃除の手を止めて食事の仕度をしようかと思ったが、昨夜の話を思い出してやめた。少しは自分でやってもらったほうが良いのかもしれないと思ったのだ。  高いところを長身の智、低いところはハルと役割分担し、二人で掃除をした。ハルは茶殻を撒いて、室内用の短いほうきとちりとりで丁寧に床を掃いてゆく。そんな掃除の仕方を今まで見たことがない智はしばしぽかんと眺めていたが、サボっていてはいけない、と持ち場の電球の傘拭きに戻った。  一心不乱に傘を拭くこと数分、再び智の手が止まったのは悲痛な叫び声が聞こえてきたからだ。 「ハルさん?!」  慌てて乗っていた椅子を降りて声の元へ駆けつけると、ハルが悶えるようにうずくまっていた。 「どうしたんですか? 大丈夫ですか!」 「……腰やってもた……」  ずっと中腰のような状態で家の中じゅうを掃いて、その後畳を持ち上げようとした時、それはやってきたのだという。  ギックリ腰のようだ。  こうなってしまうともう大掃除どころではない。ハルはベッドに寝かされ、代わりに智がハルの指示を仰ぎながら、一生懸命ひとりで掃除を頑張った。 「悪いなあ、全部やらせてもて」  ハルは申し訳ないやら情けないやら、穴があったら入りたい気持ちだ。 「いえ。いつも頑張ってもらってるんですから。今日はゆっくりしてて下さいね」  智はここでいいところを見せるぞという意気込みが見て取れて、むしろ嬉々としているようですらある。 「はぁ……蕎麦打とうと思てたのに無理かな」  そんな智を可愛く思いながら眺めつつも、計画が台無しになり落ち込むハルだった。 「掃除、だいたい終わりました、買い物リストできましたか?」 「ん、今送っといた」 「じゃあ行ってきますね!」  智が掃除をしている間にハルがスマートフォンで買い物リストを智に送っておき、これから智が買いに行くのだ。  本当ならおせちも雑煮もいちから手作りの予定だったが、無理そうだ。なので急遽予定変更、一品ごとにレトルトパックされている手軽なおせちをいくつかピックアップしておいた。餅だって自分で作るつもりだったが、仕方なしに切り餅を買ってきてもらうよう頼んだ。 「はあ……病院も休み入ってもたし、タイミング最悪やん。なんで今やねん」  智がいないのを良いことに、ハルは落ち込みを露わにした。 「ただいまです!」  思いのほか帰宅が遅れてしまった暮れのスーパーマケットはどこもたいへんな混雑で、会計時もいちいち長蛇の列で、全部が全部時間がかかってしまった。 「はい、これでリストのものは全部です」 「ありがとう」 「それから、これ」  智がおずおずとエコバッグから取り出したのは、湿布だった。 「調べたら、直後は冷やして、数日したら温めた方が良いって見て。カイロも買ってきました」 「あ、ありがと」 「貼りますね」 「ん、頼むわ」  ハルがゆっくりと智に背を向けるように姿勢を変え、智は湿布の包装を開け剥離紙を剥がし、ハルの腰に手を当てた。 「このあたりで良いですか?」 「もうちょい下かな」 「この辺」 「せやな」  智は湿布をあてがい手でそっとさするように押さえながら、智とは全然違う、綺麗な逆三角形で筋肉質の背中、そしてシーツに流れる黒髪をまじまじと見た。 「……えーちゃん?」 「どのぐらい安静にしてたらいいんでしょうねえ」 「ん~最近じゃ適度に動いた方がええらしいけど」 「適度に」 「ん、でもちょっと動いても痛いから、あんまり動けそうにない」 「そうですか……」 「しばらく迷惑かけることなるけど、ごめん」  背中を向けているのでどんな顔をしているかはわからないが、そう言ったハルの声色は非常に落胆していた。  智はまだ背中を撫でさすりながら、こんな弱々しいハルを見るのは初めてだ、と驚き、共に落ち込んだ気持ちになった。 「ん、もうええで、ありがとう」 「あ! ごめんなさい、痛かったですか」  智がハルの腰付近から背中をずっと撫でていたのは無意識だった。患部を触ると痛かったかもしれない。 「んや、痛くはなかったけど」 「けど? 何でしょう、不快でした?」 「ちゃう、気持ち良かったで、でももうええわ」  もう少し触れていたかったが、ハルにそれを拒絶されてしまった、そんな風に感じてしまって、智は少し寂しく思った。  人に触れること、触れられることが苦手だったというのに、いつからか触れるのも触れられるのも平気になって、それどころかこんなにも触れたいと自ら望むようになってしまっていたなんて――。 「も、もう少し、触れていたいんですけど、ダメでしょうか」  勇気を出して、気持ちを訴えてみた。が。 「アカン」  決死の思いを一蹴されてしまった。恥ずかしいことを言ってしまって、しかも断られ、顔から火が出そうだ。 「ですよね、痛みがあるのに人に触られたらイヤですよね、すみまs」 「そんなんちゃうから」 「え……」 「ヤバいねん」 「何がですか」 「勃ってきとんねん」 「はっ……」  自棄気味で白状したハルより、智の方が赤くなった。 「勃ったところでやることもやられへんから、もう触るんやめといて」  しばらく動けない、ということは、しばらくそういったこともできない、ということか。智の脳内で、ようやく全ての「?」が解決した。 「……あの」 「ん?」 「それ……」 「……うん」 「く、口で……」 「な、何言おうとしてんねん……」  智が何を言い出すつもりか、ハルはなんとなく察して、落ち着きを失う。そんなハルに反して、智はダイレクトに訊いた。 「口でしましょうか」
/38ページ

最初のコメントを投稿しよう!

39人が本棚に入れています
本棚に追加