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初めて、あげる
智はそわそわしていた。割といつもそわそわしている方だが、最近は特にだ。
街中がバレンタインで浮かれる。おしゃれなファッションモールはもちろんのこと、普段食料品の買い出しに利用するスーパーマーケットや、昼食を調達するコンビニエンスストアですら。
智にとって、バレンタインなんて苦い思い出しかない。誰からももらえないことなんて当たり前で、好きな人ができたってどうすることもできない。女の子なら、このお祭り騒ぎに乗じて想いを告げることができたのにと、己の不遇を呪うような気持ちになったこともあった。けれど後になって気づいた。智はもし女性に生まれていたとしても、告白する勇気なんてなかっただろうと。
「椚田さん」
「おお、えーちゃん」
智は気になっていた。椚田のところは、いや、世の同性カップルは、バレンタインをどうしているのか。
「もうすぐバレンタインやなあ」
察してかどうかはわからないが、椚田のほうから話題を振ってきた。
「そう、ですね」
「えーちゃんとこはどないすんの?」
「っ、いえ、何も」
「えー? そうなん?」
椚田は大げさなほどに眉を下げ、がっかりした表情になった。
「椚田さん、たちは」
「うちはまあ、いつもどおりまったりするんちゃうかなあ。もうチョコ用意してあるし、たぶんまたおんなじチョコくれると思う」
そこまで言うと、椚田はニシシと笑い出した。
「アヤな、俺が『これめっちゃ好き』って言うたチョコ、毎年おんなじのんくれんねん。なんとかのひとつ覚えというか、考えるんがめんどくさいんかしらんけど。しゃあないやっちゃろ」
ぼろかす言っているようで、その口調や表情はとても幸せに満ちていて、もはやノロケでしかない。
「お互いに、贈り合うんですか」
「うん」
女子からあげるもの、と頑なに思い込んでいた智は少し驚いた。
「えーちゃんは? あげへんの?」
「ん……実は悩んでて」
「何を悩むことあるん? すでに両思いのやっさしい彼氏がおんのに」
そう言われてみればそうだ。『彼氏に贈る』と思えば、智が贈るのに何の違和感もない。
「確かに、役割的にも僕から贈るべきだとは思うんですが」
「役割て」
「はぁっ!」
智が真っ赤になって慌てているのを、リョウは冷静な目で見ていた。ハルがバリタチなのだからそんなことぐらい察している。だがあえてリョウは気づいていないふりをして続けた。
「ハルもきっと準備してると思うけどなあ」
「え……?」
「どっちから贈るべきとか役割とか、どうでもええやん。好きな人、あげたいと思った人にあげたらええんやて」
「そう……ですね」
「あ、ハルが好きなんはな……」
その日の帰り、智はデパートに寄って、椚田から教えてもらったチョコを買った。
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