二日目

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「知らない女の人は、私の父の愛人でした。私の父をどれほど好きか、父はその女の人をどれほど好きなのか得意気に語っていました」  リビングをそっと覗くと、玄関に置かれたハイヒールと同じ色をした唇が急なカーブを描いているのが見えた。その女の人は笑っているはずなのに笑っているようには見えなかった。それまでの人生で見てきた大人の笑顔とは違っていた。私の母を馬鹿にし、自分の優越を見せびらかすための笑みだった。 「私はそれを見て怖いと思いました。誰かを好きになった人は、こんな怖い顔をするのかと思いました」  私はまだ小学一年生だった。恋の喜びや楽しさを知るよりも前に、恋の醜さを知った。 「誰かを、何かを好きになるのは、私にはとても恐ろしいことなんです」  誰にも話したことのない話、私自身ですら忘れていた話をなぜか相沢さんに聞かせていた。  私が話し終わると辺りには虫の声だけが響いていた。黙ったまま聞いてくれていた相沢さんが、虫の声にかき消されそうなほど小さくて頼りない声で呟く。 「呪いなのかもしれないね。僕の家訓も、須賀さんの記憶も」  呪い。相沢さんは女性に優しくするようにという家訓に縛られ、私は何かを好きになるのは恐ろしいのだという意識に絡めとられ、二人とも自分自身の胸の奥にある熱が感じられなくなっている。  冷血動物は、ずいぶん寂しい生き物だ。
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