吟行初日

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「あのー、すみません」  背後から年配の女性の声が聞こえた。振り向くとおばさんとおばあさんの間くらいの年齢の女性三人組がいた。三人はそれぞれキャリーケースを引いている。 「東寺(とうじ)に行きたいんですけど、出口がよくわからなくて」  女性の一人が言う。目についた大学生集団に向かって言っているのであって、私一人に言っているのではない。そう思ったのはみんな同じだったようで誰も足を止めなかったが、集団の最後尾にいた一人が足を止めた。 「東寺ですか? ちょっと待ってくださいね」  そう言いながらスマートフォンを取り出したのは二年生の相沢(あいざわ)さんだ。すらりとした長身にきれいに整えられた黒髪、爽やかなブルーの襟付きシャツを着た好青年が対応してくれるとわかり、女性三人組は一様に顔をほころばせた。  短歌同好会の面々はどんどん歩いて行ってしまう。年配女性たちに足止めされている相沢さんが気がかりだったが、私も歩く速度を上げてみんなの背中を追った。三人組の声は大きかったが、次第に遠く小さくなっていく。 「相沢さんって本当に誰にでも優しいね」  私のすぐそばで誰かの声がした。その声に答えて「マダムキラー」という単語と忍び笑いが聞こえてくる。その笑い声を聞いているとお腹の底が冷えていく。忍び笑いから逃げようとした私の耳が、こちらに近づいてくる足音を捉えた。 「ああ、やっと追いついた」  すぐ後ろから相沢さんの声が聞こえた。三人組と別れてから急いで来たようで、軽く息が上がっている。見ず知らずの人たちのためにわざわざ足を止めて検索してあげる相沢さんは、同好会の中でも誰にでも優しいと評判だ。  でもその優しさを評するみんなの口からはいつも、氷でできた小さな棘のようなものが一緒にこぼれ出ていた。
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