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延暦寺駅で降り立つと、山麓とは違う温度の空気に包まれた。ひんやりとした風がここは山なのだと伝えてくる。
「比叡山延暦寺っていうけど、そういう名前の一つのお寺があるわけじゃない。この山全体が延暦寺なんだ。日本一の山といわれたら富士山と答えると思うけど、昔は山といえば比叡山だった」
顧問の先生が腕を大きく広げて解説を始める。他のみんなが写真を撮ったりメモを取ったりしているのを見て、私も慌ててカメラを起動した。これは単なる観光地巡りではなく吟行なのだ。夜には居酒屋で夕食をとりながら歌会が行われるので、それまでに三首の歌を用意しなければならない。
代表の山尾さんが首から下げていた一眼レフで写真を撮りまくっているのが見えた。さすが代表、熱心だと思っていたら「山尾さんって寺社建築マニアなんだって」という声がどこからか聞こえてきた。建物から離れたり近づいたり、あらゆる角度から建造物を写真に収める山尾さんはどこか狂気じみていた。
そんな山尾さんにぴったりとくっついているのは四年生の稲葉さんだ。短歌同好会では四年生になると引退モードで月二回の会合にもあまり顔を出さなくなるが、稲葉さんは唯一吟行にも参加している。仏像マニアで比叡山の仏像に会いたいから参加すると言っていたが、他にも理由があるのは同好会の全員が知っている。
「せっかく滋賀県に来るなら、琵琶湖周辺の十一面観音巡りのほうが良かったな」
稲葉さんが甘えた声で言うと、「じゃあ今度行こうよ」と山尾さんが囁きかえす。その声は親密な熱を帯びていて、私は二人の熱から逃げるようにそっとその場を離れた。
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