吟行初日

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 今日の観光地巡りは近江神宮で終わりだ。これからホテルに行き、夕方の歌会までに三首の歌を作らなければならない。  ホテルはツインルームで、同じ一年生の篠塚(しのつか)さんが同室だった。私と篠塚さんはどちらのベッドを使うとかここに荷物を置いてもいいかといった最低限の言葉を交わし、あとは別々の方向を向いて歌作りをした。篠塚さんは必要以上に距離を詰めてこない人だとわかり、私は安堵した。  カメラに収められた写真を眺めながら、指を折りつつ五音と七音の言葉を探っていく。全教科の中で国語の成績が一番良かったという理由で文学部に入った私は作文でも短歌でも俳句でもそつなくこなせる。ただしもっとうまくなろうという向上心もなければ、他の同好会メンバーのように好きな歌人も歌集もない。目にしたものをなんとなく三十一文字に収めているだけだ。先輩たちの中には五七五七七を無視した破調の歌ばかり詠む人もいるけれど、型を壊すような情熱は私にはなかった。  あと一首が決まらない。京都駅で降りて湖西線に乗り換えてケーブルカーに乗る今日の道中を頭の中でなぞっていく。記憶の中で青いパッケージが閃いた。相沢さんがくれたタブレット。「炎天の舌でとろけるタブレット」と書きかけて、なんだか生々しく思えて削除した。  どうにかこうにか三首詠んで、代表の山尾さんに送る。山尾さんが全員の歌を取りまとめて詠草にし、コンビニでプリントアウトしたものを配られて居酒屋で歌会をするまでが吟行初日のスケジュールだった。
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