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(三)
「……兵庫さま」
影の中から押し殺した低い呻きと、ひそやかな声がする。
「お約束が……違う…ござります」
「違うてなどおらぬ」
「見るだけと……仰せられました」
「なればこうして、具合を見ておる」
「詭弁にござります」
「黙れ」
うぶ毛の濃い逞しい若い背が、汗の玉を光らせながらゆさりゆさりと律動する。三和土に半太夫を押し付け、うしろから乗りかかっているらしい。
「兵庫さま。お許しを……古弦太を……待たせておりまする」
「ふん、食意地の張ったあやつのことじゃ。今ごろむしゃむしゃ瓜を食うておるわ」
兵庫介が嘲るように鼻を鳴らす。押し伏せられている半太夫の単衣を腰までめくり上げ、むき出しになった尻を引き寄せて、さらに突き上げる。
「兵庫さま、うッ……」
影のなかで、半太夫の背が反り返る。
「ようなってきたのだろう、お半」
「いいえ……」
「嘘じゃ。こうやってわしの摩羅に吸いついてくるは、ようなってきた証じゃ」
逞しい律動に押されて、白い下肢が揺れる。
「怒るな、お半、な……こうして繋がっておれば、わしは何もいらぬ……おまえしか、いらぬ」
兵庫介がつと、切なげに囁く。
ふいに、むくりと背を起こした。汗が滴たる若い首を巡らせ、板敷きの奥の暗がりに立つ古弦太へと眼を向ける。
「お半、わしの摩羅は好きか?」
腰を使いながら、兵庫介が平然と問う。
「なにを……仰せられますやら」
後からゆさぶられつつ、半太夫が呆れ声で返す。
「好きかと聞いておるッ!」
「大声を出されますな」
「なれば答えよ」
「答え申したら、お放し下さいますか?」
「うむ」
「嘘をついたら向こう七日、交合はいたしませぬぞ」
「七日もか?」
「はい」
「………」
「嘘をつかねばよいのです」
「うむ」
兵庫介が気の抜けた声でしょんぼりと返し、半太夫が突っ伏したまま堪えきれぬというふうにくくと咽を鳴らして笑い出す。
「なにが可笑しい?」
「この世が終わるような情けない声を出されますな」
「七日もいたせぬなど、この世の終わりと一緒じゃ」
すねた童子のように兵庫介が唇を尖らせる。
「好きでござりますよ。なれば早う……気を遣られませ。某はもう……」
床板にすがる半太夫の腕が突っ張る。
「早う……兵庫さまッ……」
湿った息を震わせる。
「お半ッ!」
蝉時雨が、白い光のうちに溶けてゆく。
兵庫介の若い背から、汗が虹を描いて飛び散った。
「待たせたな」
半太夫が、替えの茶を持って台所から戻ってくる。
古弦太は何事もなかったふうにゆったりと団扇を使いつつ、田舎びた庭の濃い緑のなかに咲く一群れの野萱草の花を見ていた。
「暴れ虎の機嫌は直ったのか?」
平らげた瓜を脇にやりつつ、橙色の彩りから眼を移す。少し離れて座った半太夫を見た。
「うむ。薪を割ってくださるそうじゃ」
「ほう、えらく働き者になったのう。縦の物を横にもしない男が」
「兵庫さまは、こまごまとよう手伝うてくれる。水汲みも、薪割りも、頼まぬうちに」
「よう躾たな」
「兵庫さまは、やさしいお方じゃ」
素知らぬ顔をつくってはいるが、抱かれた後の肌の火照りは薄暗がりでも隠せはしない。しっとりと汗ばんだ躯から、兵庫介の体臭ともつかぬ交合の名残がただよう。
首もとの汗を拭いつつ、半太夫が消えかかった蚊遣り盆を引き寄せる。添えてあった蓋つきの器から粒状のものを掬いとり、蚊遣りの中へと撒き入れた。すると、ふっと沈の香りがひろがる。
「蚊遣りに香をまぜるとは、ずいぶん洒落ておるのう」
「来客用じゃ」
うつむいたまま、半太夫が蚊遣り盆を風上へと押しやる。
古弦太はその横顔を見やりつつ、玄関から居間へと上がったときも沈香が薫っていたのを思い出した。
だがそれより前、縁側から居間へと忍び上がったときは、蚊遣りの煙が淡く流れていただけだった。
「わしは、客と認めてもろうているのか?」
「一応な」
半太夫が眼を上げ、唇だけで笑う。けだるさを滲ませた眼に、ぞくりとする色香が灯っている。
古弦太は、半太夫を抱きたい激烈な情動に駆られた。花浅葱の単衣を引き毟り、兵庫介を受け入れたばかりの後庭を犯す。
(されば、あの虎は——)
まさに暴れ虎のごとく、斬りかかってくるに違いない。だとしても、返り討ちにすればよい。陰狩の鷹であろうと生身の人だ。武力勝負なら叶わぬ相手ではない。手強いのはむしろ半太夫である。鷹に害をなすあらゆるものを刈り取るのがその任であり、鷹の女房とはそれだけの武力をもつ者の称号でもある。人にとっての脅威は、鷹でなく女房なのだ。
だが、半太夫はこの一刻ほどの間に三度抱かれている。まず、まともに闘える態であろうはずがなかった。
(あの白い尻に男柱を打ち込んで責め立ててやれば、大人しゅうなるやも——いや、イチはそんなしおらしい玉ではない。どんな状況に落ちようと必ず反撃してくる。それでも、わしはイチを犯す)
半太夫の小太刀に心の臓を貫かれる夢想が、古弦太の血を熱くする。
血まみれの半太夫と、胸から血を噴きあげる自分。そして傍らには息絶えた兵庫介の血まみれの死体。脳髄へと溶けこむ蝉時雨のなか、古弦太は猥らで残酷な血の幻影に酔った。
「古弦太」
呼ばれて、はっとする。
「どこか悪いのか?」
半太夫が眉を寄せた案じ顔で、こっちを見ている。
「いや。そろそろ行く。馳走になったな」
幻影をふりきり、古弦太は立ち上がった。土産の香木は懐に入ったままだ。
信濃の旅籠で会ったとき、半太夫はおそらく兵庫介に抱かれた直後であったのだろう。蚊遣りとともに流れてくる沈の香が、それを知らせていた。
「次は、羽喰の城下で」
玄関の廂の下で、古弦太は振り向いた。
「うむ。気をつけてゆけ」
見送りに出て来た半太夫が、竹の皮で包んだ握り飯を渡す。
「毒など仕込んでないゆえ、安心して食え」
「腹下しの薬もか?」
「しつこいぞ」
笑う半太夫の涼やかな男らしい顔に、夏の陽射しが照りつける。
裏庭から薪を割る音が響いてくる。兵庫介は顔を見せるつもりはないらしい。
古弦太は懐に手を入れ、香木の包みに触れた。交合の名残を消す道具であるなら渡したくはない。
だが、兵庫介の匂いを凌いで、半太夫が纏うことになるなら——。
「おまえにやる」
古弦太は、さも今思い出したかのような面つきで包みを渡した。
「香木じゃないか。どういう風の吹き回しだ?」
半太夫が匂いを嗅ぎつつ、いぶかし気な眼を向ける。
「女にねだられて京で求めたのだが、戻って来たら間男ができていてな」
「そいつはお気の毒だったな。受け取り手がいなくなったという訳か」
「ま、そんなところだ」
「ずいぶん上等な品だが、よほどその女に惚れていたのだな」
「まあな、今も未練たらたらよ」
「そこまで惚れているなら、その間男とやらを追い出せばよかろう」
「そうしたいところだが、そうもゆかぬのよ」
「込み入った事情がありそうだな」
「おまえには関わりないことさ」
「そうだな……」
微笑した半太夫の顔が、心なしか寂し気に見える。
「そういう顔をするな」
「なに?」
「今、さみしいと思ったろう」
「思わん」
「女に焼きもちを焼いたな」
「毒を仕込んでやろうか」
半太夫が眉を顰めて呆れ顔をする。つんとした唇の下のほくろを舐めてやりたいと思ったが耐える。
「なれば、また——」
古弦太は背を返して枝折戸をあけた。そのまま振り向かず鬱蒼たる木々の暗みへと踏み出す。
淡い沈の香りとともに、降りしきる蝉の音がついてくる。
(虎を殺したとて、おまえはわしのものにはならん)
苦い想念を振り切り、古弦太は決然と草深い山路を歩き出した。
了
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