(二)

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(二)

 古弦太は、魂を吸われるごとく見入った。  恐ろしく淫らな眺めである。  逞しい筋肉をそなえた男が、褌一本も纏わぬ裸体を晒し、両腕をだらりと開いた態で仰向けに横たわっている。横に向いた顔は、濃い影に隠れて見えぬが、死んでいるのではないことは、その引き締まった胸や腹が安らかに上下していることで分かる。  だが昼寝をしているのではない。薄闇に取り残された躯へと眼線を向けつつ、我知らず息を殺す。淡く光を弾くしっとりと汗ばんだ白い首筋。胸元に散る無数の赤い痣。半分ほども影に沈んだ無毛の股間で、古弦太の眼が止まる。濡れ濡れとしたそこは、官能の名残を孕んだままひっそりと息づいていた。  古弦太の咽が、ごくりと鳴る。  すぐ近くで蝉が鳴き出した。  古弦太は軽い目眩を覚えつつ、窒息寸前の息を吐いた。 (……誰だ?)  知らぬ男である——否。たとえ顔が見えずとも、厳しく鍛え込まれた細身の、すらりとした躯は見間違いようもなく半太夫のものだ。  だが——  古弦太の知らぬ半太夫である。半太夫は、いつ寝るのかと思うほど勤勉な男であった。近くにいた古弦太でさえ、寝姿を見るのは怪我をしたときくらいのもので、ましてや寝ている時とて熟睡することはほとんどない。その半太夫の、この姿は……。  だが古弦太は、これが兵庫介に抱かれたあとの姿であることも分かっていた。二人が役目の上だけでなく、躯の上でも夫婦であることなど、とうの昔に知っていた古弦太だ。 「……う」  半太夫が低く呻いた。  肩の筋肉がひくりと動き、首がごろりとこちらを向く。  髪を乱した寝顔は思いの他、若い。薄くあいた唇の下の米粒ほどのほくろが、思い掛けない色香を含んで古弦太の眼を射る。 「……兵庫…さま」  その掠れ声を聞いたとき、古弦太の中で何かが弾けた。下腹に、自分でも驚くほど情慾がみなぎっている。  すうっと足を一歩すすめる。この躯を犯したいという欲望が古弦太から理性をもぎ取る。 「……イチ」  目覚めていない半太夫へと粘つく声をしぼる。  半太夫を、イチ、と呼ぶのは、もはや古弦太くらいのものだろう。陰狩の鷹の女房は、契りの儀式のおり、主家たる鷹見家から女房刀と共に女房名を拝領する。イチというのは半太夫の前の名、一郎太の呼び名である。  ——と、こちらへ向かってくる足音がした。  足音はみるみる迫り、土間に、どさっ、と物が置かれると共に、 「お半!」  荒々しい声が飛ぶ。  どたどたと足音も激しく人影が近付いてくる。  兵庫介である。  古弦太は後ろに飛んで、縁側の床下に身を隠した。 「おお、まだ眠っておったか」  兵庫介の機嫌のよい声がした。 「よいよい、そのままでおれ。用は済ませたゆえ、もう一儀じゃ」  ばさりばさりと衣を脱ぐ音がする。 「……用とは?」  どこかまだ寝ぼけたような半太夫の声が、ぼそっと返る。 「菜をもろうて来たのじゃ。これでもう、今日は出かけずともよい」 「さようでしたか。して、ちゃんと茄子をもってゆかれましたか?」 「うむ」  ぎっと床が軋み、兵庫介が寝茣蓙に横たわったのが分かった。 「兵庫さま……交合は夜に。そろそろ古弦太が参ります」 「かまわぬ。あやつが来たら待たせておけばよいのじゃ」 「兵庫さま、う……」  ぎしりと床が鳴る。  息が弾むなか、濡れた音が響く。 「う……兵庫さま。もう……お許しを……」 「ならぬ」  床がぎしぎしと鳴りだし、湿った息が蝉の音に溶けてゆく。 「お半……放さぬ。わしのものじゃ……わしのものじゃ!」  兵庫介が吼える。  肉を打つ音が絶えまなく響く。 「兵庫さま……もう……」  途切れ途切れに半太夫が懇願する。  呻き声はだが、苦しげではなく悦楽に濡れている。  古弦太は耳を塞いだ。  降るような蝉時雨が、古弦太を押し包んだ。 「どうした、食わぬのか?」  半太夫に問われ、古弦太ははっとして我に返った。  廂から差す陽光のまぶしさに眼を細める。 「もそっとこっちへ来い。そこでは眩しかろう」  半太夫が目線で己の横を差ししめす。  古弦太はゆらりと長身を立ち上げ、半太夫の斜め横に座った。 「どうした、腹の具合でも悪いのか? 食意地の張ったおまえらしくもない。それともまさか、遠慮しているなどと云うまいな? いずれにしても気味が悪いゆえ、やめておけ」  くくと笑いながら、半太夫が瓜をのせた木盆を古弦太の膝もとに押しやる。 「おまえが先に食え」 「なんだ。毒でも仕込んだと疑うているのか?」 「毒とは思うておらんが、腹下しの薬など仕込まれてはかなわんゆえな」 「昔のことを、まだ根に持っておるのか?」 「澄ました顔で一服盛りおって。一晩厠通いをさせられた付けは、まだ払うてもろうておらんぞ」 「お陰で命拾いしたろうが」 「ふん。手柄を横取りしおって」 「聞き捨てならんな。いつわしが手柄を横取りした?」 「あの山は、わしが狙うていたのだ」 「手を貸せというたのは、おまえぞ」 「云うたが、出し抜けとは云うておらんわい」 「あのとき、おまえは怪我をしていた。あの足で行けば、おまえは死んでいた」 「決めつけられては迷惑じゃ。わしには秘策があったのじゃ。それをおまえが邪魔しおって」 「それはすまなかったな」  半太夫が神妙な顔で頭を下げる。 「詫びるのか?」  拍子抜けして返すと、 「秘策があったのだろう?」  あっさり返される。 「まあ……な」  古弦太はすました顔で、首の汗を拭った。少し前であったら、御託を云うなと一蹴されていたことだろう。 (イチは変わった)  人間が一回り大きくなった。頑固なところは変わらぬが、対面や挟持にこだわらぬようになり懐が広くなった。それは認めたくはないが、兵庫介との暮らしの賜であるのは明らかだった。 「なれば、わしが毒味をしてしんぜる」  半太夫が、まだ水滴をしたたらせる瑞々しい瓜を一欠つまんでしゃくりと食む。甘やかな青い匂いがすうっとあたりに広がり、あふれでた果汁が半太夫の忍びにしては綺麗すぎる指をつたって指の又から滴り落ちる。その滴りを、半太夫が躊躇うふうもなくぺろりと舌をつきだして舐めた。  古弦太の下腹に熱い疼きが走った。  鎮めたはずの情火が、熾火のごとく燻りだす。 「童っぱのようだぞ、イチ。それが三十男のすることか」  とがめる口調をつくりつつ情慾を悟られまいと片膝を立てる。 「お前に云われとうないわ」  瓜を食うのに乗り出したと思ったのか、半太夫が声を立てて笑う。 「無理をせず、裸になって食うたらよかろう」  濡れた唇を手の甲で拭う。唇の下のほくろが果汁に濡れて淡く光をはじく。 「馬鹿にするな。わしの食い上手は知っていようが。おまえこそ、裸になって食うたがよいぞ。あとで蟻にたかられても知らんぞ」 「ほう、蟻にたかられたのは、どこのどいつであったかの?」  笑う半太夫の口元から白い歯並がこぼれる。瓜に食らいつきつつ、古弦太はその白さに見入った。  いつの頃からか、半太夫は若く見られるのを嫌い、強いて笑わなくなった。笑っても忍び笑う程度で、こうして屈託なく笑う顔など、古弦太でさえ久しく見てはいなかった。 (暴れ虎が、次期頭領という枷をはめられる前のおまえに戻したというのか?) 「お半ッ!」  台所から、吼えるような怒声が飛んだ。 「どうかされましたか?」  半太夫が濡れた唇を指で拭いつつ、声の方へと首をひねる。胡座をかいた片膝が持ち上がり、下帯の菫色が股の暗みにこぼれる。 「お半ッ、参れ!」  苛立った声が荒々しく半太夫を呼ぶ。十も若い亭主が、女房の笑い声に焼きもちを焼いたものらしい。 「早う来い、お半。来ぬと許さぬぞ!」 「行ってやれ。臍を曲げて、羽喰の城下へゆかぬとごねられたら叶わぬゆえな」  瓜の果肉を食みつつ、古弦太は云ってやった。 「そうか。すまぬが、そうさせてもらう。お前はゆっくり食うておれ」  濡れ手拭で指を拭いつつ、半太夫が立ち上がる。台所へ向かう花浅葱の裾から引き締まった白いふくら脛が覗く。 (イチはもともと色白なのだ)  衣から出ている部分はそれなりに日に焼けているものの、こうして隠れている部分を見ることがあると、その白さにはっとさせられる。  そして、いつもきちんと足許をつくりこむ半太夫が、あのような着流し姿でいるのは、古弦太のささやかな意趣返しの産物にほかならぬ。交合の熱が冷めやらぬのを承知で玄関へ回り、訪問の声を上げたのだった。  気を遣る寸前をねらって邪魔してやりたい気持ちもあったが、兵庫介に臍を曲げられては御役に障る。二人がまだ交合を解かぬうちに、何食わぬ顔であらわれることで、古弦太は自身に折り合いをつけたのだ。 「もうよいだろう。あやつを追い出せ!」 「兵庫さま。さように仰せられては、古弦太が気を落としましょう」 「ふん、それしきの事で、あやつが気を落とすものか」 「兵庫さま。今日はご機嫌よくおられると、約束された筈にござりますぞ。それゆえ昼日中に」 「煩い!」 「某との約束を、違えると仰せらますのか?」 「………」 「もうしばらく、大人しゅう待っていてくださるなら——」  半太夫の声が、鳴きしきる蝉の音に溶ける。  そのあと、しばらく無音が続いた。 (虎め、イチの口でも吸うているのか)  それとも——  古弦太の脳裏に、菫色の下帯が薄闇に咲く花のようにともった。あのような色めいた下帯をつけていることより、あの布の下が、剃毛されていることが、したたるほどに兵庫介の精を含ませられていることが、古弦太を苛立たせる。  古弦太は立ち上がった。黒々とした床板を踏んで台所へ向かう。 (茶をくれとでも云えばよい)  兵庫介の淫事を阻止できればよいのだ。  薄暗い廊下を進むと、土間の出入り口から白い光が差していた。一段低い板敷きの台所へと下りるも、差し込む光が強すぎて様子が分らぬ。イチ、と声を掛けようとして息を詰める。  入り口のすぐ脇、一際濃い影の中で、筋肉を盛り上げた逞しい裸の背がゆさりと動いたのだ。
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