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(一)
「——して、羽喰家の世継ぎの躯が、鱗に覆われているというのだな」
「うむ。それゆえ日の半分を、水を張った大盥の中で過すというのだ」
「齢は?」
「十二」
「鱗以外に変異はないのか?」
「頭のできは並以上とのことだが、夜間、鼠を喰うらしい」
「鼠を……」
「それも丸呑みするそうじゃ」
「まるで蛇ではないか」
「それゆえ裏では蛇若さまと——」
古弦太の日に焼けた、やや厳ついおもてに廂を潜った午后の強い陽光が差す。
蝉の音が、時雨のようにふり注いでいる。
庭の井戸の方から釣瓶を操る音と、水の弾ける音がする。
「事の次第はおおよそ分かった。ここから羽喰家の城下へは、三日というところか」
「行ってくれるか」
「行かずばなるまい。陰が関わっているやもしれぬでな」
「飛丸を一足先に羽喰の城下へ潜らせている。お前たちが着く頃には、子細が分かるだろう」
「相分かった」
向いに座っていた男が、つと鋭い眼光をやわらげ、
「瓜でも食うか」
と云った。
汗をうかせた首筋の白さが、薄暗い屋内になまめいた艶をもって灯る。
「わしに馳走したら、暴れ虎が癇癪を起こすのではないのか?」
皮肉を込めて、古弦太は云ってやった。
暴れ虎とは、男の主——いや、おのれの主でもある鷹見兵庫介である。
男の名は邑井半太夫。楢芝衆次期首領と目された、古弦太の一つ歳下の従弟は、今は兵庫介の女房として陰狩の旅に随行している。
「案ずるな。兵庫さまは機嫌がよい。お前を家に上げたとて、文句を云わなかっただろう」
「眼を付けられたがな」
ふんと鼻を鳴らすと、半太夫がくくと笑って腰を上げる。着流した花浅葱の単の裾をひるがえして台所へ向かう。黒々とした床板を踏む足裏が、はっとするほど白い。
「兵庫さま! 瓜を引き上げてくださりませ」
土間に下りたらしい半太夫が、庭に向かって声を放つ。
井戸の水音は、兵庫介が水を汲んでいたものらしい。
「冷えておりましょうから、古弦太に食わせてやりとう存じます」
「お前とわしとで食おうと冷やしておいたのじゃ。あやつに食わせてやることはない!」
吼えるような、荒々しい声が返る。
「兵庫さま。古弦太はお役で参ったのですぞ。このような暑い日に山を越えて来た者を労ろうてやるのも、主の役目にござります」
蝉時雨のなか、高くなり低くなりながら二人の会話はつづいている。
つと声が途切れ、水音がした。
兵庫介が井戸から瓜を引き上げたらしい。
(機嫌がいいのは本当らしいな……)
いつもであれば、半太夫がいくらなだめようと取り付く島などない兵庫介である。その暴れ虎が、文句を云いつつも古弦太に馳走するために井戸から瓜を上げたのだ。
(虎め。女房を抱いて上機嫌とは、めでたいこった)
腹の中で毒づきつつ、部屋の隅に敷かれた真新しい寝茣蓙に眼線をやる。
眼の奥に、半刻前の光景がよみがえった。
守頭古弦太がこの家に着いたのは、午を少し過ぎた頃だった。予定では未の刻と読んでいたのだが、宿場での用向きが思った以上に早くかたづいたのだ。
古弦太は弁当をたずさえ、緑したたる濃厚な夏山に入った。
里人も通わぬ険しい山道を、鍛え込まれた忍びの脚で息もみださず黙々と歩む。
(早く着いては、暴れ虎がさぞ嫌な顔をするだろうな)
思いつつも、歩調が一向にゆるまないのは、それにもまして半太夫に会うのが楽しみだからだ。
(わしとしたことが、浮かれているか?)
おのれに問いかけ、含み笑う。
信濃で別れてから半年以上会っていない。
汗に湿った懐に手を入れ、小さな包みに触れる。夏まえに京へ行ったときに求めた香木だ。
(あの石頭が、香を聞くなど世も末か)
毒づきつつも包みに触れる手指はやさしい。
信濃の旅籠で会ったとき、半太夫が旅用の小さな香炉から沈香を燻らせていたのだった。
忍びに香りは禁物だが、陰狩の鷹の女房になって八年、半太夫の中でなにかが変わりはじめたようだった。
古弦太は、つと長い溜息を落とした。
半太夫を喜ばせたくて、つい買ってしまった香木だが、半太夫がこれを受け取ったら、楢芝には戻らぬという心のあらわれであるに違いなかった。
(女々しいのは、わしか?)
半太夫が兵庫介と陰狩の旅に出て八年経つというのに、諦めきれぬ古弦太だ。
(思い切れるか! 二十年以上、わしの全てを懸けてきたのだ)
半太夫を頭に据え、自分が右腕となって里を栄えさせる。
古弦太の夢だ。
降るような蝉時雨と鳥の声を聞きつつ、草深い道を進む。
やがて日差しを遮る木々が途切れ、茅葺きの小さな家が見えてきた。
古弦太は枝を張った大きな楠の木の木陰で噴き出す汗を拭った。少しの間、ゆくか行くまいか思案する。知らせより、一刻ほども早く着いてしまった。
(ここで飯を食っていった方が無難か)
兵庫介は嫉妬深く、女房の半太夫が楢芝衆と会うことさえ嫌う。とりわけ古弦太は、兵庫介にとって天敵であるようだった。
(ふん、お互いさまよ)
木陰に座りこみ、塩で握った飯を頬張る。ふと思い立って、飯を食みつつそのままするすると楠の大樹に登った。横に張り出した手ごろな枝に尻を据えると、青々と葉を茂らせた梢の向こうに、家の縁側と、垣根に囲まれた小さな畑と井戸を備えた小庭が見えた。
(敵も昼餉か?)
午后の日が照りつける家の周りに動く影はない。
鳥たちも昼寝をしているのか、蝉の音だけが滲みいるようにふりそそいでいる。
——と、がっしりした体躯の若侍が家から出てきた。厚みのある広い肩、長い腕。整ってはいるものの荒々しさが勝る相貌。眉の濃い、強情そうな面付き。袴の腰に大小を差している。兵庫介だ。
(ふん、相変わらず元気そうだな)
たしか今年で二十三になる。前に見たときより体ができて、ひと回り大きくなったようだ。
団栗でも投げてやろうかと枝に手をのばしたが、兵庫介は乱れた総髪を撫で付けながら、足早に垣根を出て杜へと入ってゆく。
(どこへゆくのやら?)
木々の間に消えてゆく精悍な後ろ姿を見送り、家へと眼を戻す。
兵庫介が出て行ったということは、家には半太夫一人ということだ。
古弦太は残りの握り飯を口に詰め込み、ひょいと木から飛び下りた。兵庫介が消えた方角へ眼を向け、念を入れて気配を伺う。歩み去ったようで、こちらを窺う気配は感じられない。
(わしは間男か?)
おのれの行動を笑いつつ、そっと枝折り戸を開け、庭へと入る。
戸を開け放した家内からは、なんの音も聞こえない。
蝉の音だけが、白日の光にとけてゆく。
古弦太は足音を忍ばせ、縁側へと近付いた。かつて里一番の手練と謳われた半太夫を驚かせてやるのも一興であろう。
廂の下に落ちた濃い影にそって進む。
半太夫の驚く顔を想像して、頬がゆるんだ。
(蛙でも捕まえてくればよかったな)
昔、若衆宿で枕を並べていた童子の頃のことが思い出される。
あの頃——いや、半太夫が陰狩の鷹の女房になるまで、二人はいつだって一番近くにいたのだ。
古弦太は音を立てずに縁側に上がった。強い陽射しに照りつけられる戸外と反対に廂の内は暗く、冷んやりしている。
そっと足先をすすめ、くるりと身をかえして開け放した戸口の前に立つ。
はっと息を飲んだ。
薄暗がりに男の白い裸体が横たわっていたのだ。
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