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 曇天を映した隅田川が、どんよりと流れていく。地元の川につながっているような気がして、俺はますます気が滅入った。浅草寺の裏手にある路地に入った。住宅街の合間に、昭和から続いているような喫茶店や、日に焼けたポスターが貼られた美容院なんかが、ぽつぽつと店を構えている。そんな路地裏の一角にめあての画廊はあった。入口は狭く、ウナギの寝床のように細長いつくりだ。重たい扉を開けて、受付スタッフに名刺を渡した。約束の時間まであと十分。先に絵を見せてもらいたいと言って、俺は受付をはなれた。  受賞作は入口に一番近い、胡蝶蘭のスタンドのそばに飾られていた。壁のライトに誘われるように、右、左、と顔を動かしながら、奥へ、奥へと進んでいく。突きあたりまでいって、俺は足を止めた。乳白色の壁に小ぶりな絵画が展示されていた。  モチーフは、教室で絵を描く男子学生。  額縁の中にいるのは俺だった。 ◆  小六の秋、俺は絵画コンクールで入賞した。担任が応募を呼びかけて、授業の一環で参加したものだった。俺は勉強もスポーツも苦手じゃない。でも得意ってほどでもない。絵だって別に好きでも嫌いでもなかったけど、単純に自分にもいいとこあるじゃんって思えて、子どもながらに嬉しかった。  だから公立中学に進んだあとは、考えるまでもなく美術部に入った。四階建て、Ⅼ字型校舎の南棟の二階。西向き。そこが俺たちの美術室だった。入学式の次の日、さっそく二階に下りていった。廊下の先に、突っ立ったままのあいつが見えた。 「どうした? 入らねぇの?」 「あ……先輩ですか」  こっちを振り向いたあいつに、俺は息をのんだ。  あいつの右頬には、濃い茶色の三角形の痣があった。  口元を押さえて声を殺して、息を整えた。 「すみません。驚いたでしょう。火傷です。同小のやつらは慣れてるんですけど」 「ああ……いや悪い。そうか。てか俺も新入生。昨日入ったばっか」 「そうなの? 堂々としてたから」 「ははっ、でかいだけが取り柄だかんな。おまえも? 美術部?」 「うん……いや……迷ってる」 「へえ。とりあえず入ってみよーぜ」  俺はあいつの背中を押した。ごわごわの学ランの下は、薄くて女子みたいに華奢だった。一歩踏みこんだら、むわっとこもった空気が鼻についた。絵の具とカビと濁った水をかき混ぜたみたいな匂い。薄暗くて、カーテンを開けたら、橙色に部屋が染まった。 「わっ、まぶし」 「てかこれ絵傷むんじゃねぇの」  黄や緑の絵の具が付着した前衛アートみたいな石膏像も、卒業生が残したらしい林檎と洋ナシの水彩画も、ぜんぶ橙色のフィルター越しに眺めてるみたいだった。  部は弱小、顧問はやる気のない爺さんだった。部活必須の学校で幽霊部員ばっか集まるなか、俺は毎日、放課後になると美術室にむかった。俺の隣には、あいつがいた。あいつは結局、俺と一緒に美術部に入部した。  茶色い猫毛をぴょんぴょん跳ねさせ、薄い背中を丸めて、あいつは画用紙を膝にのせていた。クラスが違うから、顔を合わせるのは放課後だけだった。たまに廊下ですれ違っても、あごをゆらす程度の間柄。一人でいることが多かったけど、別に虐められてるふうでもない。遠目からでもよく分かるのは、あの痣のせいだった。同級生たちはあいつを受け入れながらも、どこかよそよそしく見えた。あいつも人当たりはよかったけど、目だけはいつもひとを突き放すみたいだった。
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