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「東」  澄んだ声が背中にかかる。振り向いたら、直人がいた。  すぐにはあいつだと分からなかった。  右頬の痣は一見気づかないほど、薄くなっていた。 「直人……いや、磯谷さん」 「なにそれ。めっちゃ他人行儀」  不快な顔もみせず、直人は目尻にしわを作っていた。 「なぁこれなん………ですか、磯谷さん?」  俺は目の前の『俺』を指さした。 「東」 「なんで………ですか?」  後ろに立ったまま、直人は絵を見上げた。 「さあ?」 「は?」 「わかんない。なんとなく描いてみただけ」 「あっ……そう……ですか」  俺は絵の下に貼られた、小さなパネルを見た。  『無題』と印刷されてある。  ほんとに意味なんてないのかもな、と思い直した。  ケースから名刺を取りだして、直人に差しだした。  直人は四角い紙をじっと見て、俺に目をむけた。 「東は絵、描いてないの?」 「ああ、描いてね…………ないです」  直人は「そっか」と呟いて、自分の名刺を手渡した。代理の取材を詫びても興味なさそうに頷いただけで、すぐに事務室に入っていった。当たり障りのない質問を終えて、何枚か写真を撮らせてもらって、事務的なことを二、三伝えた。直人は入口までついてきて、扉を開けて見送ってくれた。  空から白い粒が落ちていた。  吐く息も白い。  振り返ったら、このくそ寒いなか、直人はまだ扉の前で手をふっていた。 ◆  欄干に両腕をのせて、川面に落ちる雪を眺めた。  後から後から落ちてきて、今夜には真っ白になりそうだ。  あの日も雪だったらよかったな。どぶ川も汚ねぇハートも全部白い塊で覆われてたら、あの道を戻れてたかもな。  雪は川面に触れたとたん、溶けて消えていく。  花びらのようにこぼれ落ちて、でも姿は残さずに。  まるで最初から存在しなかったかのように。  …………やっぱだめだ。  雪で覆い隠しても、溶ければもっとドロドロになる。  生まれた感情は、儚く川面に消えてくれたりはしねえ。  なあ直人。  おまえ、なんであの絵を描いた?  一枚のデッサン仕上げるのに、おまえがどんだけ描いて消してたか知ってんぞ。  たった一本の線さえも、おまえは全力で描いてただろ。  なんとなく、でも。  なんとなく、の裏にはなんか意味があるんだろ?  おまえの隣にいたら、また濁った感情が湧いてくるかもしんねえな。  でも。  あの絵の意味を俺が聞かなくて、他の誰が聞くんだ?  あおいだ空は高く白くて、昼飯前より明るく見えた。  冷たい結晶が、ひたひたと顔に落ちてくる。  俺は橋を引き返した。
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