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6
「東」
澄んだ声が背中にかかる。振り向いたら、直人がいた。
すぐにはあいつだと分からなかった。
右頬の痣は一見気づかないほど、薄くなっていた。
「直人……いや、磯谷さん」
「なにそれ。めっちゃ他人行儀」
不快な顔もみせず、直人は目尻にしわを作っていた。
「なぁこれなん………ですか、磯谷さん?」
俺は目の前の『俺』を指さした。
「東」
「なんで………ですか?」
後ろに立ったまま、直人は絵を見上げた。
「さあ?」
「は?」
「わかんない。なんとなく描いてみただけ」
「あっ……そう……ですか」
俺は絵の下に貼られた、小さなパネルを見た。
『無題』と印刷されてある。
ほんとに意味なんてないのかもな、と思い直した。
ケースから名刺を取りだして、直人に差しだした。
直人は四角い紙をじっと見て、俺に目をむけた。
「東は絵、描いてないの?」
「ああ、描いてね…………ないです」
直人は「そっか」と呟いて、自分の名刺を手渡した。代理の取材を詫びても興味なさそうに頷いただけで、すぐに事務室に入っていった。当たり障りのない質問を終えて、何枚か写真を撮らせてもらって、事務的なことを二、三伝えた。直人は入口までついてきて、扉を開けて見送ってくれた。
空から白い粒が落ちていた。
吐く息も白い。
振り返ったら、このくそ寒いなか、直人はまだ扉の前で手をふっていた。
◆
欄干に両腕をのせて、川面に落ちる雪を眺めた。
後から後から落ちてきて、今夜には真っ白になりそうだ。
あの日も雪だったらよかったな。どぶ川も汚ねぇハートも全部白い塊で覆われてたら、あの道を戻れてたかもな。
雪は川面に触れたとたん、溶けて消えていく。
花びらのようにこぼれ落ちて、でも姿は残さずに。
まるで最初から存在しなかったかのように。
…………やっぱだめだ。
雪で覆い隠しても、溶ければもっとドロドロになる。
生まれた感情は、儚く川面に消えてくれたりはしねえ。
なあ直人。
おまえ、なんであの絵を描いた?
一枚のデッサン仕上げるのに、おまえがどんだけ描いて消してたか知ってんぞ。
たった一本の線さえも、おまえは全力で描いてただろ。
なんとなく、でも。
なんとなく、の裏にはなんか意味があるんだろ?
おまえの隣にいたら、また濁った感情が湧いてくるかもしんねえな。
でも。
あの絵の意味を俺が聞かなくて、他の誰が聞くんだ?
あおいだ空は高く白くて、昼飯前より明るく見えた。
冷たい結晶が、ひたひたと顔に落ちてくる。
俺は橋を引き返した。
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