5.月夜

20/30
前へ
/427ページ
次へ
「よくあるかは知らないが、俺のせいで潰れた工場はないから安心しろ」  よほど面白かったのか、まだ肩を揺らして笑っている。  たとえのつもりが大笑いされて、私は年甲斐もなくむうっと唇を捻らせた。 「そうね。皇丞の場合はフラれた女の逆恨みで私が刺されそう」 「あり得ないが、もしそんなことがあったら体張って守ってやるよ」 「大丈夫です! 逃げ足は速いから」 「遠慮すんな」 「してないから」  コンコンとドアがノックされ、「失礼いたします」と声がした後で、ゆっくりとドアが開く。  支配人はワゴンを押していた。  のっているのはクーラーに入ったシャンパン。  皇丞にラベルを見せてから、流れるような手つきでボトルを空け、その口を私の前に置かれたグラスに向けて傾ける。  音もなく注がれていく金色の液体は、いくつもの透明な泡が次々と浮き上がって輝いている。 「ありがとうございます」  素直にお礼を言うと、支配人は穏やかに微笑んだ。  四十代前半くらいだろうか。  整った髪と隙のない所作がそう思わせるが、もしかしたら皇丞とさほど変わらないかもしれない。  彼は皇丞のグラスにもシャンパンを注ぐと、ボトルをクーラーに戻し、「すぐにお食事をお持ちいたします」と言って出て行った。 「じゃ、とりあえず乾杯」  皇丞がグラスを持って差し出したから、私もそれに倣う。 「梓の逃げ足の速さに」 「はい?」 「冗談だよ。初デートに、かな」 「ふふっ」  コツンとグラスを軽く触れ合わせ、グラスに口をつける。  冷えたシャンパンが喉を潤し、わずかに感じるアルコールの香りが鼻を抜ける。  さっぱりしたのどごしで、ほんのり梨の味がする気がする。
/427ページ

最初のコメントを投稿しよう!

25787人が本棚に入れています
本棚に追加