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「よくあるかは知らないが、俺のせいで潰れた工場はないから安心しろ」
よほど面白かったのか、まだ肩を揺らして笑っている。
たとえのつもりが大笑いされて、私は年甲斐もなくむうっと唇を捻らせた。
「そうね。皇丞の場合はフラれた女の逆恨みで私が刺されそう」
「あり得ないが、もしそんなことがあったら体張って守ってやるよ」
「大丈夫です! 逃げ足は速いから」
「遠慮すんな」
「してないから」
コンコンとドアがノックされ、「失礼いたします」と声がした後で、ゆっくりとドアが開く。
支配人はワゴンを押していた。
のっているのはクーラーに入ったシャンパン。
皇丞にラベルを見せてから、流れるような手つきでボトルを空け、その口を私の前に置かれたグラスに向けて傾ける。
音もなく注がれていく金色の液体は、いくつもの透明な泡が次々と浮き上がって輝いている。
「ありがとうございます」
素直にお礼を言うと、支配人は穏やかに微笑んだ。
四十代前半くらいだろうか。
整った髪と隙のない所作がそう思わせるが、もしかしたら皇丞とさほど変わらないかもしれない。
彼は皇丞のグラスにもシャンパンを注ぐと、ボトルをクーラーに戻し、「すぐにお食事をお持ちいたします」と言って出て行った。
「じゃ、とりあえず乾杯」
皇丞がグラスを持って差し出したから、私もそれに倣う。
「梓の逃げ足の速さに」
「はい?」
「冗談だよ。初デートに、かな」
「ふふっ」
コツンとグラスを軽く触れ合わせ、グラスに口をつける。
冷えたシャンパンが喉を潤し、わずかに感じるアルコールの香りが鼻を抜ける。
さっぱりしたのどごしで、ほんのり梨の味がする気がする。
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