衝動

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あの日のことは覚えている。 彼の片割れだろう彼の妻を失って、そのぽっかりと空いていた隙間に、私がするりと入り込んだ。 そして、私も。 今まで自分でも気づかなかったその隙間に、榊が入り込んできて、ぴたりと収まったのだ。 「榊さん、榊さん、さか、きさん……」 名前を繰り返すごとに、二年前のあの愛しさが込み上げてくる。 小さな棺桶の中、一輪のカラーと一緒に添えられていた手紙は、いつの間にか握り締めていて、ぐしゃりとよれてしまった。 その手紙をもう一度広げて読み、私はこのスカイブルーの空を見上げながら、返事を書いた。 心のなかに。 榊さん お久しぶりです。あなたのことはよく覚えています。 あの時は、 ありがとう、 何度もその続きを書こうとして、書いては消し書いては消してと、何度も頭の中で消しゴムをかける。 ありがとう、の先が見つからないのはなぜだろう。もうとっくに、答えは出ているというのに。 「う、うう、ああぁぁ」 その間にも涙はとめどなく流れ落ちていき、嗚咽は息をつなぐ間にも容赦なく吐き出されていく。 私はこの時初めて、歯ブラシ以外のものでえずいた。 あの橋の上で、私に向かって手を伸ばしたのは、痛いほどのあなたの孤独。 覚えている。 あの時こそ私は、ひとりは寂しいと泣いたその苦しみに、助けられたのだから。 きっと今頃、テレビやら新聞やらが、有名人である榊の死について何らかの情報を知らせているだろう。その情報が正しいのか正しくないのかはあの時、刹那の時間を共にした私にならわかるのかもしれない。 けれど、それもこのオンボロビルの屋上には届かない。届かない。 「ひとりは寂しいよ」 屋上の手すりに手を掛ける。 ここからではあの橋や川は、遠すぎて見えない。 そうだね、寂しいね。 「けれど、ごめん。私は生きているよ」 私は棺桶のような段ボール箱を捨て去って、白いカラーを手に取った。遠く、遠くに力いっぱい、それを屋上から放り投げる。 涙が、その拍子に散った。 「ごめんね」 どうか。 どうか。 このカラーがあなたに届きますように。 連れていかなかった、私の代わりに。 そしてあなたを決して孤独ではない道の終着へと、 導いてくれますように。 「おい、痛いって」 ツネの濡れた髪を、タオルで拭き上げる。白いタオルにみるみる、黄土色の汚れがついていった。ツネの柔らかな黒髪が、明るい栗色に変わっている。 「うん。やっぱいい色だよ」 「そう? 地味じゃね?」 「乾かすと、また色が変わってくるから。ちょっと、そのドライヤー取って」 「おう、」 手渡されたドライヤーのコードの先を、コンセントに差し込む。スイッチを入れると、ドライヤーはボボボォっと間延びしたような音をさせて、ぬるい風を吹き出した。 その風量は弱い。短いツネの髪はともかく、私の肩までの髪はこのドライヤーではなかなか乾かない。 新しい、ちゃんとしたのが欲しいな。そう思う。あれ以来、物欲も性欲も食欲も、ちゃんとある。 髪を指で梳いていると、髪染めの独特な匂いが漂ってきた。 ツネからは、朝必ず作ってくれる卵焼きの匂い、好物でよく食べているキャラメルの甘い香り、ライブの時だけ髪をツンツンにする整髪剤の匂い、色んな匂いがする。私はいつしか、そういうことに気づくようになっていた。 そんな些細なことがちょっと嬉しいような気もしている。二年前までは、歯を磨く時のあのクソ不味い歯磨き粉の味にしか、気づいていなかったから。 あの日、貰ったのだろうか? 橋の上ですれ違った時に香った、あの人の甘い香りは、花。 きっとあれは、カラーの花だったんじゃないかと思う。贈られてきた白いカラーを手に取った時、その香りを思い出したから。 好きな花だったのか、もう訊くこともかなわないけれど。 「はい、いいよ」 ドライヤーのコンセントを引き抜いて、ぐるぐるとコードを巻きつける。傍に置くと、ツネの隣で一緒に鏡を覗き込んだ。 「うわこれすげえいいんじゃね? かっけぇな。マジイケてるわ」 「あはは。じがじさーん」 ツネが笑い、私も笑う。 小鳥のタトゥーがいつのまにか増えていた腕を肩に回し、ツネが私のくちびるにキスをしてくる。私はそのキスに応えて、ツネの唇に刺したピアスをかいくぐりながら、舌を割り込ませた。じゅと音をさせて吸うと、身体中のそこかしこから漲ってくるものがある。 私はもう、衝動の、その構造を知っている。 愛しい、嬉しい、温かい、柔らかく、そして眩しくて、愛しい。 おでこをくっつけて、お互いに笑いながらキスを交わす。 そうやって今日も生きていく。 生きたいという衝動に、突き動かされながら。
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