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それ以来、榊から連絡はない。私は生気を取り戻し、次第に普段通りの生活に戻っていった。
そしてある日。
オンボロビルの大家さんに貰った新聞でたまたま、榊が有名な将棋指しだと知った。
「……しょうぎ」
私は笑った。
将棋。
まるで、私には無縁の遊びだ。
棋士。ふふ。棋士だったとは。
「どうりで。ワイシャツにスラックスが、似合ってないと思った」
私は、その可笑しさを抱えたまま、久しぶりに大学の講義に足をはこんだ。
「奥さんがね。僕の全てだったんだ」
榊が、ぽつりと呟いた言葉が浮かぶ。
「これからどうやって生きていっていいのかも分からないよ」
私のひざ枕の上に乗せた頭。榊がそこから上目遣いでじぃっと見てくる、その瞳が頭の中にこびりついて離れない。
「寂しいよ。ひとりは嫌だ。嫌なんだ」
寝転びながら猫のように丸くなる。思い出す。そういえばあの橋の上でも同じように丸い背中をしていたな、と。
そして私といえば、どうだろうか?
今日もオンボロビルの屋上から、この広い空を見上げている。この空は、ちゃんと天国へと続いているのだろうか?
「悲しみは、どうやったら消えるんだ?」
その問いかけに、答えられなかった。
私だって今までに、それをどうやって消し去って生きてきたのだろうか、分からないから。曖昧すぎる自分には、ほとほと愛想が尽きている。
「君を本当に連れていってもいいのか?」
初めて出逢った、橋の上。
私を連れていってと言ったのは、今までの自分であって、今の自分じゃない?
榊との出逢いで、キスをしたいと思う衝動の、その構造もカラクリも知った。
これからは、誰かの濡れた髪を拭き、安心できるように手を繋ぎ、その欲情に突き動かされるようにして、何度も抱き合いキスをするのだろう。
それが今の私ならきっと、これからの私ならきっと、できるのではないかと思えてしまう。
別れる時。
連れていってと言えなかった。一緒に逝くと言えなかった。
「……ごめん」
私が言うと、
「そんな、悲しそうな顔をしないでくれ」
榊が少し困ったように、微笑みを薄っすらと浮かべた。
オンボロビルの屋上で。ダン箱の棺に入れられた白いカラーをそっと撫でる。
葬式用だろう。白と黒を併せたリボンが、その茎にくるくると巻きつけられている。
うろ覚えだった送り主の名前。
今では鮮明に思い出せる。
将棋の道を突き詰めた者。有名すぎる棋士の名前。
それは二年ほど、昔の話。
あれから二年経って、私は生き、
そして今日、彼は死んだ。
小鳥 殿
ずいぶん久しぶりだね、僕のことを覚えているだろうか。
今日、僕はやっぱり小鳥になって、君の元へ行こうかな。
君は今、笑っているだろうか?
もし君が泣いているなら、僕と一緒に飛んでいこう。
けれど笑っているなら、僕は君を連れてはいけない。
いや君は笑っている。
笑っているはずだ。
君は、元気で。
最後の言葉があまりに普通すぎて、わっと涙が出た。
彼が怖れていた、ひとりの寂しさが、今になって痛いほど理解できる。
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