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こうやってビルの屋上から、歯ブラシを口に突っ込みながら、眺める景色が好きだ。
それは6階建のビルのこの屋上からならば、この世界をゆっくりと見渡すことができるからだろうか?
何にも影響を受けず、何にも関心を持たず、この歳になるまで何ら欲望のひと欠片もひりつく渇望も内なる衝動もなく、ずるずると生きながらえてきた私にとって、ここからの景色はある意味、貴重なものだ。
別に生きたいとも思わないしここからダイヴしたいとも思わないし、人生の意味とか意義とか考えたこともない。
空はだだっ広いだけの空虚、うろこ雲の模様にぞぞっとし 、青白く浮かぶ月はカスタード入り、通りを行き交う人間の姿は……定番だけれど蟻、か。
「ふわあぁねみ」
そういうくだらないのを抜きにした早朝のこの時間。
私にとって普段は色褪せた世界がただ唯一、色を持つ瞬間だ。次第に天に昇ろうとしている朝日に照らされて、辺り一面が黄金色に輝いていくのが、実にいい。
天気が良い今日のような朝は、毎日。私は早くに起きてこのオンボロビルの屋上で、くっそ不味いチープな歯磨き粉で、歯を磨きながら伸びをする。
「……コトリ。おいコトリ。またおええぇええってなるぞ」
次第に近づいてきては明瞭となる、高くも低くもない声。背後から、手首に矢絣のタトゥーの入ったぶっとい腕がぐるんと回り込んできて、咥えていた歯ブラシを乱暴に引き抜いていく。
「んむっ、ぶっっ」
口から白い飛沫が散った。なにすんだこのメタル教信者め。
「おいこらまたボケっとしてたのか? コトリ、良い加減にしろ。早くうがいしてこい」
引っこ抜かれた歯ブラシを強引に持たされる。
そこまでされても私の頭はまだぼんやりだ。それでも屋上にぽつんと一つ、寂しくたたずんでいる孤独なシルバーシンクへと移動していって、蛇口をひねった。
勢いよく水が放出される。シンクに跳ねる水飛沫とドドドダダダという地響きのような音に、私の意識は現実へと完全に引き戻された。Tシャツが濡れたが、まいっか。
口と歯ブラシをゆすぐ。いつのまにか肩に引っ掛けられていたタオル。そのタオルで口元をぬぐう。タオルがない場合はよれたTシャツの肩口で、いつもは口をぬぐう。
「ありがと」
「いーかげんにせーよ。ちゃんと顔も洗え」
棒読み。背が高い。面倒見の良い、この男はツネという。ファンキーでメタルな格好をしているツネは、学部こそ違うが同じ大学で、ルームシェアしている同居人だ。このビルの二階を間借りしていて、いつもは友人、たまに恋人。
世話好きでいつもぼんやりの私の世話を焼いてくれて、とてもとても都合がいい。
「こんな朝早くに居なくなるなよな。心配するだろうがよ。あとコレな、昨日届いてたって大家さんが」
そう言って地面に置かれていたダン箱をコツンと蹴った。そして、屋上から階下へと続く、非常ドアの向こうへとさっさと消えてしまう。
「だからって今、持ってこんでも」
ツネの指示通り顔を洗う。濡れた顔にタオルを押しつけながら、ダン箱に手を伸ばす。抱えられる大きさ。長方形。中身は空なのではないかと思うほどに軽い軽い軽ーい。
「ナニコレ? おーいツネぇー。ナニコレぇえ?」
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