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「しつれいします…」 「汚くはないけど何もないんですよ」 本当にそうだった。 何も、ない。 ベッドにテレビ。ちいさいテーブル、ちいさい棚。引越屋のロゴ入りの段ボール箱が2、3個。 横目でちらりと見た、ほとんど水を落としてすらいなさそうなシンク、めいっぱい入っている台所用洗剤、まだ張りのあるスポンジ。 炊事をしたり家具のレイアウトをあれこれする時間がないくらい、忙しいらしい。 雑然としてはいないけれど、すこし寂しい感じがする部屋。僕のところと同じ間取り、同じ壁紙。ひと部屋では工夫のしようもないから、ベッドとテーブルとテレビの位置はほぼ重なると思う。 「適当に座ってください。つっても座るモノが何もないんですけど」 何もない、ってフレーズが早くも2回目。 わかる気がした。何もない気がするんだよな、ひとり暮らしって、家に帰って来ると。外の世界のにぎやかさや情報量との落差。自分の持っているものの少さ。 それで、こう答えた。 「いや、僕の家も同じですから」 モデル兼俳優と書店員の共通点なんてないはずだけれど、ひとり暮らしとしての共感を込めた。 すると彼は冷蔵庫の扉の陰から軽く笑んだ。 ひかえめな微笑みだ。 すこしだけ距離が縮まった気がした。ほんのすこし。 僕は彼の定位置ではなさそうなテーブルの脇に座る。 あ、そういえばまだ名乗っていないし、聞いてもいない。 「あの、名前って」 「そういえば、名前」 ()。 「…ハモった」 「…ハモった」 するとまた、冷蔵庫の向こうから、笑う。さっきより、もうすこしくしゃっとした笑顔で。 内心の緊張がほどける。知り合ったばかりの相手の家に来ているどきどきと、雑誌の表紙になっている人の近くにいることの両方が。 「田中晴です」 「北村廉っていいます」 本当は既に知っている。ミーハーだと思われそうで、「Brilliant」を見たと、ましてや買ったとは言わない。 芸名ではなく本名なのだろうか。 キッチンの位置はうちと逆、たぶんとなり合う部屋で対称になる配置なんだな、などと考えていると、 「あ」 と声が聞こえた。振り向く。 「何もない」 再三の、何もない、だった。冷蔵庫の中も? 僕も、自炊はまあまあするけれど冷蔵庫に買いだめはしない主義だ。使い切れなかったり、忘れて腐らせたりしまう。 ましてや彼、北村さんは規則正しい生活ができる仕事ではないだろうから。 「あ、じゃいいですよ。気を遣わずに」 「買い出しして来ます」 「いいです、そこまでしてくれなくても」 「でも」 ねぎのしなびた切れっ端を持ったまま、北村さんは眉をすこしひそめて何か言いたげだ。 モデルの、キメた顔じゃない。僕はまた勝手に親しみを感じる。 「もらったものはお返ししないと…」 何かしようとしてくれているのがわかる。律儀に。 だからと言って、買いに行かせるのはしのびない。あのとき僕が作った雑炊はたまたまあった物のありあわせに過ぎなかった。 スーパーもコンビニも少し遠い。僕のためにそんなことをしてくれなくて、いい。 けれど気持ちを無碍(むげ)にするのも同じくらい悪い気がした。 どうしたものか、と考えてみる。 「やっぱ行ってきま…、」 立ち上がろうとした北村さんをとどめる。 「じゃ、こういうのはどう? うちにある食材を持って来る」 「…でも、それじゃお礼の意味が」 「いいです、どうせ余らせがちだし、だったら使ってくれた方が」 待っててくださいよ、と言って、玄関から出て行く。 キムチ(小分けパックの残り1個)、トマト、ピーマン。 冷凍してあったベーコン、スライスチーズ(2枚)。 ヨーグルト…はいらないか。ちいさい容器のやつだし、無糖じゃないから料理には使えないだろう。 店長からおすそわけされたドリップコーヒーもいくつか持って行こうか。 それから、卵8個。8個もいらないかな。 手近なビニール袋に冷蔵庫の中身を押し込む。 しなびたねぎを持って、やけに真剣な眼差しをしていた。長身を、単身者用のちいさな冷蔵庫の陰にひそめて。 思わず笑みがこぼれた。
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