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いきだおれ? 酒臭くはない。知り合いじゃ、ないよなあ。今更ながらその可能性を考えた。けれどこの季節外れの軽装、それにオートロックの内側に入って来ているのはおかしい、と思い直す。
玄関を入ってすぐ左手にあるキッチンの横に、その人は倒れ込んだ。
つい、部屋に上げてしまった。
どいてもらわないと、僕自身が家に帰れないってのがあったし。
中に入れた判断は正しかったのだろうか?
新手の強盗の可能性は?
僕はローファーを脱ぎ、彼の脇を体を横にしながら通る。
さっき肩を貸したときも思ったけれど、この男の人はかなりの長身だ。今はでくのぼうのように転がっている。
邪魔なのは当然として、僕の部屋に見知らぬ、倒れている他人がいるというその異物感がすごい。
水でも飲ませたら起きるだろうか。
冷蔵庫を開く。ちいさな紺色の冷蔵庫は大学時代から使っているから、若干色あせている。
「あの、大丈夫ですか?」
声を意識的に大きくして話しかける。
肩につかまってほんの2、3歩だけれど歩いたってことは、気絶しているわけではない。
その事実に、とりあえずほっとする。
ミネラルウォーターのペットボトルを、蓋を開けてから差し出す。
指先はこちらに向いているけれど、受け取らない。
うつ伏せになって玄関の方に足を伸ばして、腕は軽く曲げて顔の脇に投げ出している。
顔だけ横に向けている。そうしないと息ができないからね。
悶え苦しんでいる様子はない。
けれど表情は変わらず苦しそうだ。
まぶたがときどき引きつって、眉間には深い皺。悪い夢をみているみたい。
傍らにしゃがみこむ。
「…どこか痛い所はないですか?」
すると首を横にゆるゆると振る。
それは良かったです。
「あなたは、このマンションの住人?」
ネットで検索すると単身者におすすめの上から5番目くらいに出てくるこのレジデンス・イノウエの。
今度はうなづいた。
さりとて隣の住人の顔も思い出せないくらい、マンション内で交流はない。住人のほとんどが男性だというくらいの認識しかない。
すると、彼はいきなり頭を上げた。いきおいよく。
「ーーー痛ッ!!」
顎を下から打ち上げられた。
強い力じゃないけど、不意打ちだったから首が後ろ側にもげそうになる。
謝れよ。舌噛むところだったぞ。
未だほとんど閉じた目をこすっている。頭はどうひかえめに見ても寝癖のままだ。
「眠くて…それにお腹も空いて」
薄い唇が歪むようにわずかにひらいて、言葉をこぼす。
それさっきも言ってたなあ。
「あ…あのっ」
ずっとあとになって思い出してみても、なぜそんな言葉を発したのか不思議でたまらない。
卵パックの10個入りと6個入り、どちらを買うかすら、さんざん迷うこの僕が、だ。
知り合った、とも言えないような状況で会ったばかりなのに。
そして彼の方だって、そうだ。
見知らぬ相手の部屋に連れ込まれたら(表現に大いに語弊はある)、さっさと出て行くのが当然なのに。
「うちで、何か食べて行きませんか」
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