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買ってしまった。 妹がこのポーチ欲しいみたいで、などと聞かれてもない言い訳までして。 妹は本当に存在するし、ポーチは妹にあげるつもりだ。 だから、嘘じゃない。レジは自分でそそくさと打って処理した。 今日に限って健康保険の福利厚生にかんする書類が配られて、カバンがぱんぱんなのだった。 だから、素手でつかんで持ち帰る。早番だったからちょうど帰宅ラッシュに重なって胸に抱き抱える羽目になった。表紙を自分側にはとてもできなかったので外側に向けた。 気持ちがどうにも落ち着かない。小走りで、スーパーにも寄らず、まっすぐマンションまで帰る。 階段を駆け上って、荒い呼吸をしながら3階の通路に着く。 今日は…いないよな。 だれもいない灰色の通路。8室分の扉が静かに並んでいる。夕日が差して、細かい埃が舞っているのがよく見える。 今日は、いるはずがなかった。 2日連続で、自室でもない部屋の前に倒れている奇特な人など、いない。 昨夜の、あらぬものが、そう、落ちていた、という表現がふさわしいと思う。自分の日常に異物が入ってきた。 いや、僕が拾った。 それから、あの、密やかな寝顔。 …って、僕は何をじっくり思い出しているんだ。 誰も通りかからない通路で首をぶるぶると振って、カードキーを取り出す。 この雑誌は。妹にあげるんだから。 炊飯器から、炊きあがりを知らせる合図が鳴った。 冷凍しておいた鰤に、醤油とみりんのたれを軽くくぐらせて、焼く。 そのあいだに、大根と蒟蒻の煮物を温める。 僕って悲しくなるくらい、マメだな。 外食・コンビニ弁当ざんまいの時期もあったけれど、あれって飽きがくるんだよね。栄養バランス云々以前に。 鰤の切身のサイズがちいさくて薄いので、だし巻き卵も作ろうと思い立つ。 卵は2個使おう。 冷蔵庫の卵を入れる場所はちょうど10個分で、ひとつ、ぽっかり穴が空いている。 いたいけな子どもみたいに、スプーンを口に運んでいた。 その姿と、雑誌の表紙のクールな印象とは結びつかない。 僕は混乱して、それから、混乱どころではなく動揺する。 「元々モデルで俳優もやっている」という、女性雑誌の表紙までつとめる芸能人が同じマンション(の、推測だが同じフロアかもしれない)に住んでいる。 あまつさえ自分の部屋に来て、作った物を食べて行った。 普通ならもっと高揚して、人に自慢したくなったりするんじゃないか? けれど僕は…。 何だろう、そわそわして、誰にも言いたくない。そう思ってしまった。 秘密にしたい。 それでいて、何度も思い出す。思い出してしまう。 すこし焼けた頬に影をさすまつ毛。スプーンを持つ骨張った長い指。 それに、乾燥しているに違いない、皮がめくれていた、若干色褪せた唇。 って、もう! だから何なんだよ。 僕は卵をボウルの縁に叩きつけて割る。僕は少しおかしくなっている。慣れないこと、というより、人生のうちでそうないことを経験したからかもしれない。 醤油と粉末だしと砂糖を入れ混ぜる。 やや雑に音を立てて混ぜる。 何かしていないと、息ができなくなりそうだった。 自分が彼をそんなにも見つめていたことに改めて気付かされて、また、ひとりで居心地が悪くなる。
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