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足音で誰かが先を上っているのはわかっていた。 軽くて、早めの一定のリズム。一度止まる。それからスマホの起動音が聞こえた。 階段を上り切ると、すぐ手前が僕の部屋だ。 はあ、と大仰なため息をついて顔を上げる。 丈の長い上着の裾が翻ったのが視界に入ってきた。 199X年9月4日生まれ、乙女座でA型。 一度読んだだけで暗記してしまった。 北村廉。 今日は季節相応の服装をしている。 隣の部屋の鍵を開けようとしている。 僕は彼を知っているような気になっていた。雑誌4ページ分程度。 うちにあった、買って来たばかりのなけなしの卵を1個、食べた。 頭の中はめまぐるしく一瞬でいろんなことを考えるけれど、体はひとつも動かない。 ただ彼を見ていた。首だけこちらにひねって、僕が今まさに取り出そうとしているのと同じ形のカードキーを持っている。 「…こんばんは」 「…えッ⁉」 僕に言ったのだろうか? まわりを見回しても誰もいない。 「こっ、こんばんは…」 うわずった声で応える。 階段脇のエレベーターから人が降りて来て、通路を歩いて来た。 サラリーマン風のその男性は、僕と彼の脇を通り抜けながら「こんばんは」と言った。 挨拶をしつつ、その人が通り過ぎるまで2人とも何となく黙る。 その人が自室に入って鍵をかけた音がすると、顔を上げて目を合わせる。 わっ、こっち見てる。 薄茶色の丸いレンズのサングラスをすこし下げて。 「この前はありがとうございました」 律儀に、体ごとこちらを向いてぺこりと頭を下げた。 おぼえてたんだ。そりゃ、おぼえているか。 隣の部屋だったんだ。同じ階かなという気はしていたけれど。 「あ、いいえ…」 僕もつられて彼の方を向く。 「実は菓子折? 持って伺ったんですけどいつもお留守で」 えっ…。礼儀正しい。 「別に、そんなのいらなかったのに」 お礼が言われたくてしたことではない。 「賞味期限が切れちゃって、お菓子はマネージャーにあげました」 マネージャー。芸能人ぽい単語だ。 僕はこっそり「Brilliant」の表紙を思い浮かべる。雑誌は本棚に刺してあって、歯磨きの最中などに取り出して眺めてはさっとしまう。 とは言えないので、 「元気になられたようで良かったです」 と大人ぶって、言った。 これで終わり、のはずだ。 折り目正しい20代社会人ならば。 けれど彼、北村廉さんは扉のドアレバーに手をかけたまま僕を見ている。 何か変なこと言ったかな? いや、言っていない。挨拶と、あとは堅苦しいことしか言っていない。不審がられようはずもない。 「…うちでなんか食べて行きませんか? お礼」 彼の口からこぼれた台詞が意外すぎて、僕はまた言葉を失う。
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