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 時を遡ること三週間。  澤田真琴は、仕事終わりに会社から恋人の家に向かっていた。  昼頃に来たLINEには、今日は出張先から直帰して普段よりも早く帰宅できるから、一緒に家でご飯を食べようということと、料理は自分がする、といった旨が記されていた。  彼女の恋人、宮部は大手外資企業のITエンジニアだ。有名私立大学の工学部出身で、学年は一つ上だが浪人を経て入学しているため年齢は二つ上。高校三年間は、男子が九割の理系クラスに所属していた。  大学ではインカレサークルに所属し、月に一回の集まりと、週に何度も開催される飲み会に、参加したりしなかったりしていた。  彼の男友達曰く「ちゃんとすれば悪くない」という宮部に彼女を作ってやろうというサークルの男共の働きかけにより、当時サークルの新入生の女子の中で一番背が高くて声の小さい真琴と付き合う運びとなったのは、夏のことだった。  当時の真琴は、大学の名を出せば一目置かれるような国立大学の中でも看板学部と言われている経済学部にストレートで入学する才媛。しかし、いつも自信なさげで、引っ込み思案な真琴にとって、就職活動は困難の極みだった。エントリーシートは難なく通るが、面接がなかなか上手くいかない。そもそも面接が上手くいくという感覚すら、彼女は知らない。  内定は三社から出たが、どれも大学ホームぺージ等の進路実績の一覧には載せてもらえないか、載せてもらえたとしても見る者の大概が「はて」と思うような会社ばかりだった。  大学進学の際に関西から上京し、そのまま東京の会社に就職したため、できるだけ知り合いと出会わないよう、下宿先から一番遠い職場を選び、入社に合わせて職場の近くに引っ越した。  就職先で与えられた業務は、特別難しかったり忙しかったりはしなかったが、かと言って効率化を図って生産性を上げることが評価されるようなものでもなかった。ノルマが課されて能力を以て達成できるかどうかを問われるようなものでも、無論なかった。  単調で退屈で、地獄と言うにはあまりにもぬるいが、目標に向かって邁進するだとか自己実現なんてことは、その仕事を続ける限りは彼女の生涯に無縁なことが約束されている。  それに真琴が気づいたのは昨年、入社してニ年目の夏前だった。  受験戦争を勝ち抜いた結果彼女が得たのは、低い自己肯定感に不釣り合いな学力と、真面目で朴訥とした恋人だけだった。  しかし真琴にはそれだけで十分だった。  連絡通り真琴が宮部の住む部屋に着いたときには、既に食事が出来上がっていた。鮭の塩焼き、豆腐ときのこの味噌汁、小松菜のおひたし、水菜と大根のサラダ。  宮部が作る料理にはテンプレートがある。タンパク質一品、味噌汁、野菜を使った料理二品。効率を第一に栄養も考慮されているらしい食卓に、真琴は思わず目を細める。  真琴は対照的に、宮部の好きな食べ物を中心に様々な食材を使用して、バリエーション豊かな食卓を心がけていた。 「まこちゃんおかえり。家に着いたのが三十分ほど前で。間に合ってよかったよ」  宮部は律儀なタイプで、自分の発言はほとんど必ず全うする。そんな誠実さに、真琴は平凡ながらも穏やかな家庭を夢見ていた。  宮部はその真面目さゆえ、二人きりのときに真琴が「ずっと一緒にいてくれる?」と甘えても、ぶっきらぼうに「永遠や絶対なんて簡単に言えないよ」と答えた。  そんな後ろ向きとも言える姿に対しても、真琴は肯定的に捕捉できた。自己肯定感の低い真琴がそんな回答でも満足できたのは、付き合って七年間、宮部に女の匂いを感じたことは一瞬たりともなかったからだ。 「ご飯、ありがとね。出張で疲れてるのに」 「全然。僕はほとんど座ってるだけで、観光みたいなもんだったよ。お土産に甘いもの買ってきたから、後で一緒に食べよう」  学生の頃は真琴の下宿先に宮部が入り浸っていたが、社会人になってからはそれが逆転し、一人暮らしを始めた宮部の部屋に真琴が通うようになった。  頻度は時期によってまちまちだが、二人が休みの週末は概ね一緒に過ごしていた。さらに平日も、宮部の残業が普段よりもやや少ないことが予想されるときなどは今回のようにLINEが来て、真琴が一時間半かけて職場から宮部の部屋に来て泊まり、翌朝は普段の倍以上の時間をかけて通勤した。  真琴の仕事はまともに取り組めば残業など無用の仕事だ。宮部からのLINEがある日は、定時のチャイムが鳴るとすぐに職場をあとにした。  仕事に張り合いはなくとも、家主不在の部屋で恋人が帰宅するまでの間に家事をこなす時間は、大袈裟でなく生き甲斐を感じることができた。真琴には、宮部のことを支えることこそ歓びだった。  宮部にとってもまた、自分の存在は多少なりとも必要とされていると、真琴は信じていた。
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