いち

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『結婚してほしい』  普段は穏やかに笑っている彼が珍しく鋭い眼光を向けるあの表情を今でもよく思い出せる。  突然のプロポーズは非常に驚いたのだが、同時にとても嬉しかったのだ。 普通のありふれた生活が彼のお陰で彩が添えられる。彼と子供をつくって“普通の家庭”を築いていきたいと思っていた。  それなのに…―。 「ただいま、」  隼人は突然いなくなってしまった。既に半年が経とうとしているのに、ひまりはまだ前に進めずにいる。 玄関でパンプスを脱ぎ、リビングのドアを開けるとそこには隼人がいる。 「ただいま」 「おかえり」  もう一度そう言うと隼人は優しくひまりに笑いかける。 隼人が亡くなって通夜葬式を終えて数週間後、泣いて毎日目を腫らしているひまりの前に隼人が現れた。最初は頭がおかしくなったのだと思った。しかし、彼は本当にひまりの前に現れてくれたのだ。ただ、死んでいる人間は肉体を持たない。  触れようとしても透けているから触れることが出来ない。ひまりが仕事で疲れて帰ってきた日には心配そうにひまりに寄り添ってくれて、普段通りに喋ってくれる。  死んでしまったとはいえ、隼人はいつもひまりの傍にいてくれるのだ。 触れられないことは寂しく感じるが、傍にいてくれるならばそれでいい。 「今日お母さんを安心させるためにね、病院行ってきたよ。薬は飲まないけど」  ひまりはコートを脱ぎながら鞄の中から取り出した薬の入った袋をそのままゴミ箱へ捨てた。 「そうだね、普通はそう思うよ」 「私も最初は自分の頭がおかしくなったんだと思ったけど…違うもんね」  隼人はソファの上に座りながらふふっと小さく笑った。 「だって隼人は私に渡すはずだったプレゼントの場所教えてくれたから」 「うん、そうだよ。本当は…―ちゃんと手渡したかったんだけど」  同棲していたこの部屋で死んでから現れた隼人はひまりの脳内で作りだされた偽物だと思っていた。しかし隼人は寝室のクローゼットの中にあるネックレスについてひまりに伝えてきたのだ。  ひまりはこれは自分で作りだした隼人ではなく、本当に幽霊となって目の前に現れてくれたのだと確信した。今もひまりの首元には隼人がひまりへ渡すはずだった誕生日プレゼントのネックレスが光っている。 「隼人は幽霊だから触れられないけどでもこのままの生活でいいって思うんだ」 「そう?」 「そうだよ!隼人はそう思わないの?」  コートを脱いで寝室から戻ってくるとリビングの窓際に置かれた二人掛けソファに座る。  隼人は確実にいるのだ、隣に。触れることは出来ないがそれでもいいと思っている。このままずっとこの生活でいい。一生一緒にいようと結婚しようと誓い合ったのだから。  周囲には頭がおかしくなったと思われるため、隼人のことはもう口にしなくなっていた。家に帰宅すれば隼人が待っている。それだけで幸せなのだ。 しかし、隼人は曖昧に笑って困ったように眉尻を下げる。 「ねぇ、そう思ってないの?隼人は私のことが心配でここに現れてくれたんだよね」 「うん、そうだよ」 「じゃあこのままでいいでしょ?ずっと一緒にいられるんだもん」 「ひまりは子供欲しいって言ってたよね。それ、今の俺だったら叶えられないよ」  ひまりは大きくかぶりを振って声を張る。 「そんなことはどうだっていいの!私は…このままがいい」  隼人はまた困ったように笑う。
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