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「おはようございます」
「おはよう」
隼人が亡くなってから二週間も会社を休んだというのに、上司も他の社員もひまりを咎めることはなかった。
会社ビルの五階のフロアのドアを開け挨拶をする。いつも通りの日常を過ごしている。
背後に気配を感じて振り返る。
そこには同じ部署の風見颯太が立っていた。彼は一年前に他部署から異動してきた先輩になる。そして隣の席だ。
あまり口数の多くない二人だったから業務以外での会話はない。
「おはよう」
「おはようございます」
記憶を辿ると、確か風見颯太はひまりの一つ上の年齢だったと思う。だから今年二十七歳だったはずだ。
「今日までにある程度資料作り終えなくちゃいけないから」
「分かってます、残業するつもりです」
「それならいいけど、予定あるなら先に言っておけよ」
「もし予定あったら風見さんが一人で残業するっていうことですよね」
そうだよ、とサラッという風見は最近業務が忙しいせいで顔色が悪い。
冷たいイメージのある風見だが、意外と面倒見のいい男だ。
風見に任せるわけにはいかない。今日は残業で終電までに帰宅出来たらいいなと思った。
時間を確認しながら再度パソコン画面に向かう。既にフロアには風見とひまりしかいない。目の疲労も蓄積されているのか、目頭の部分がズキズキと痛む。
永遠にフロアに響くキーボードを叩く音が耳朶を打つ。
椅子から腰を上げフロアを出る風見を横目で追う。休憩だろうか、既に二十二時を過ぎている。普段ポーカーフェイスの風見でも溜息を吐いてから席を立ったのはきっと疲れが溜まっているのだろう。
幸い今日は金曜日だから明日は土曜日だ。明日も仕事があると思えばもっと気分が落ち込むだろうがそうではない。何とか頑張れそうだ。
と。
「はい、これ飲んであと少ししたらかえっていいから」
コトン、と音がして視線をずらすと自分のデスク脇に置かれたホットのペットボトルに思わず声を上げる。
風見が自販機で購入してきてくれたのだ。しかもそれは最近ハマっている無糖の紅茶でたまたまだとしても嬉しかった。
「いいんですか、ありがとうございます」
「いいよ。それよりも終電前に帰れよ」
「いいですよ。最後までやります」
「いいって。女なんだから流石に終電過ぎて一人で帰らせるわけにはいかない」
風見は黒髪の少しウェーブかかった髪を掻き分け、缶コーヒーをぐっと飲む。風見の顔をあまりまじまじと見たことはなかったが、意外と美形なのだと高い鼻と大きな目を見てそう思った。
「頑固ですね。私はそれなりに責任感強いのでそういう気遣いいいです」
「頑固なのはお前だろ」
風見は何度もひまりに帰るように言うがひまりは最後まで風見と仕事をした。
十二時を過ぎてようやくパソコンの電源を切った。
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