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いち
「うーん、そうですね。大丈夫ですよ、あなたはおかしくはないです」
「そうですよね」
「そうです。ただ、少しの期間休んだ方がいいですね。お母さんもせっかく心配して連れてきているので」
優しそうに目尻に皺を作る五十代ほどの先生は諭すようにひまりに言う。
隣に座る母親も何度も深く頷いて時折目尻に涙を浮かべる。
それを横目で捉えながらこれ以上周囲に心配をかけるわけにはいかないと思った。
「では薬の処方をするので、」
「はい、ありがとうございます」
母親は薬を飲めばすぐによくなると思っているのだろう、心底ほっとした様子だ。無言で診察室を出る。
会計時も一言もしゃべることはない。同じビルの一階にある薬局で薬をもらい、母親の運転する車に乗り込む。
助手席に座り母親に声を掛けた。
「もう大丈夫だから」
「とにかく、薬はちゃんと飲んでしっかり治していこう」
シートベルトを締める音がしてひまりは目を閉じた。しばらくすると自宅に到着したようで車が停車する。
目を開けると自分の住む賃貸マンション前だと知る。
「お母さん、ありがとう」
「いいのよ。それよりもちゃんと薬飲むのよ」
「分かってるよ」
「こういうこと言いにくいけど、新しい人を見つけるしか出来ないと思うの」
「……うん」
「まずは自分の生活をちゃんとすること。無理に頑張るのは違うけど、今日こうやってちゃんと診断がついたのだから」
「分かってるよ」
ひまりは何度も分かっていると繰り返して再度母親に感謝を伝えると逃げるようにして車から降りた。本当はひまりの自宅にまでついてきたかったのだろうが、ぐっと堪えているようだった。
ひまりの結婚間近だった恋人西山隼人が交通事故で亡くなったのはちょうど半年前のことだった。
季節はちょうど冬から春へ衣替えをする時期だった。同じ大学学部卒業後、社会人一年目の秋に同窓会が開かれた流れで再び連絡を取るようになったのがきっかけだった。
お互い都内で働いていることもあり、数回目のデートで付き合うようになった。
燃え上がるような恋を経て付き合ったわけでもなく、最初から空気のような存在だった彼はいつの間にかひまりにとってかけがえのない存在になっていた。
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