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「食い逃げだー!」
そういった言葉が飛んでくるんじゃないかと思い、思わず耳を塞いだ。しかし、うんともすんとも言われやしなかった。
震える手で受け取ったのは、試供品の紅茶だった。小さな紙コップに半分ほど注がれた琥珀色の液体は、ぶっきらぼうな表情のおじさん店員から手渡されたものだった。
(こちらの考えすぎか……)
怖い見た目とはアンバランスなピンクのエプロンが妙に映えていることに、少し落ち着きを取り戻した頃に気づいた。萎縮させる気は無いのだろうが、元々人から何かを手渡されること自体が苦手な私にとっては、何か言われるんじゃないかという恐怖が先に立ってしまう。
お釣りをもらおうとすれば、小銭が床に転がるんじゃないかというビジョンが先に立ち、実際に叶えられたりする。描いた夢は叶わないのに、こういうところだけは実現してしまう自分が嫌になる。最近はキャッシュレスが普及してきたおかげで、小銭のストレスからやや解放されたと思ったところに、これだ。
人から人への受け渡しというイベントが久しぶりだった分、物を手渡されるという圧力がより増したくらいだった。
しかも、その手渡された紅茶が、灼熱の熱さときた。舌が焼き切れてしまいそうなほどに。猫舌の私にはとても飲めたものではない。ふーふー、とする時間に大半を費やす羽目になった。スーパーのすみっこでこんなことをするために、私は買い物にやってきたわけではない。一人ごちていると、すみっこにいる私の存在に気づいていないであろう、二つの人影が近づいてくる。すみっこからより目立たないすみっこへと、両の手で紅茶を手にしながら、足音を立てないように滑るように移動した。存在を気づかれない、それは私の何気ない得意技だった。
「もうちょっと、愛想よく配ってくれないかなあ」
「……」
「すぐににこやかにやれってのも、無理な話だとは思うんだけどさあ。こわがっちゃうから、お客さんが」
「……はい。すいません」
「頼むよー」
さっきのピンクエプロンおじだ(勝手に心の中でそう名付けた)。もう一人は、その上司か誰かだろうか。まあ、その指摘も分からんわけではないと未だに手元にある紅茶を握りしめながら、思ったりもする。でも、ため息もつきかねる程の、誰にも気づかれないように落ち込むその姿をチラリと目にしてしまうと、やけに親近感が湧いてしまう。誰だって、人と接するときは一生懸命なものなんだよな。
「がんば、です」
まさか人見知りの私が、直接そういえるはずもなかったが、心の中だけででもエールを送ってみた。そういうのって、思うよりも届いていたりするものだから。
おいしかったです、とも言えるはずがないので、紙コップをゴミ箱に捨てるという行為をもって、その言葉に変えることにした。見ているか、見ていないかは分からないけれど、そんなことは、どっちだっていいんだ。
(了)
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