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時刻は、午後六時になろうとしていた。季節は夏。日はまだ沈んでおらず、辺りは明るさを失っていない。
前方およそ百五十メートル。フロントガラス越しに人の姿が見て取れた。若い男。流行りの髪型。洒落たデザインの銀縁眼鏡が陽光を受けてキラリと輝いた。
近頃は老眼に悩まされる上総だが、裸眼視力は左右ともに2・0以上である。この距離でありながら、こちらに向かって歩いて来る若い男の眉毛の形までもがくっきりと見てとれる。直感で、あれは八丈尊巡査なのだと思った。もしもあれが上総の思った通りに八丈尊巡査なのだとすればだが、日向は八丈尊という男を少々見くびりすぎていることになる。日向は八丈を「警察署の奥で算盤弾いてるだけの青瓢箪」と評していたが、なかなかどうして、実物の八丈尊巡査は精悍な面構えをしたサムライ風の若者である。上総はつくづく思うのだが、他人が他人に下す人物評ほどあてにならぬものはない。塀の内側も外側も、それは少しも変わらない。
「叔父貴、来ましたよ。あれが八丈です」
日向が言った。
「うん」
上総は頷いた。「そうだろうな」
後ろの座席に並んで座るチンピラふたりが「おっしゃあ」と気合いを入れた。
上総は無言のまま後ろを振り向いた。
チンピラの片割れがブラックジャックを握り締めている。
ブラックジャックは革袋に砂を詰め込んだ殴打用の凶器だ。これで殴りつけると体表に外傷は残さないが、人体内部に酷く重い痛みを食らわすことになる。むろん打ち所と力加減によっては死ぬ。だからブラックジャックというこの殴打凶器は扱いが難しい。
上総惣一郎の冷たい眼差しに畏れをなしたのか、チンピラふたりは下を向いて、塩を食らったナメクジのように身体を小さくした。チンピラの片割れが、恥じるような仕草でブラックジャックを懐の中にしまった。
上総は「ちっ」と舌を打ち鳴らし、再び前を向いた。
「はしゃいでんじゃねえぞ小僧」
上総は呟いた。ごく低い声だったから、それは他の誰にも聞こえてはいなかった。
八丈との距離は百メートル。
「叔父貴、いよいよです」
日向の言葉に、上総は黙って頷いた。
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