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上総は咳払いしてから、八丈の泣き顔の側にしゃがみ込んだ。
「かゆいな」
股関節の辺りをボリボリかきむしりながら、「よっこらせ」と胡座をかいた。もちろん股関節がかゆいはずもない。演技だ。遊びのつもりで咄嗟にアドリブを入れてみた。
「なあ、あんちゃん。爪、剥がされたくねえだろう。預金額を教えてくれりゃいいんだよ。預金額を教えてくれさえしたら、この俺が愚かな手下どもを押さえて丸く収めてやるからよう」
上総は、八丈に耳を寄せた。
「だから俺にこっそり教えてくんねえか。悪いようにはしねえから」
上総は自身の耳を指差して見せた。
「あんちゃん。教えてくれよ。いったいいくら貯め込んでるんだい」
八丈は答えない。それはそうだろう。うっかり答えようものなら、預金残高をそっくりそのままオサカベの借金の返済に充てられてしまう。八丈にとってはたまったものではない。
「僕に貯金はない」
そう言ったきり、八丈は口をへの字に結び、上総を睨んで瞬きひとつしない。
やはり思った通りだ。この八丈という男は事務屋とはいえ、やはり警察官なのだ。警察官を侮るべきではない。この男はいくら脅されようとも絶対に落ちない。それを見越して、上総は日向が練り上げた当初の台本――連帯保証人の八丈巡査を暴力で屈服させて意のままに操り、オサカベの借金を肩代わりさせる――をすべて破棄して新たな台本をこしらえたのだ。もしも当初の台本通り日向にすべてをまかせ切っていたら、上総も日向もチンピラふたりも、みんなまとめて刑務所へ一直線となっていただろう。上総は二度と刑務所に戻るつもりはない。
「貯金、ないのか」
「貯金はない。仮にあったとしても、貴様ら街のダニどもにくれてやるようなカネはない」
「ほう。言うじゃねえか」
上総は顔を強張らせながら、八丈の瞳の奥を覗き込んでいたが、やがて顔の強張りから解き放たれ、柔らかい表情となった。
「いい根性してやがるぜ。さすが公務員。さすが警察官だ。気に入った」
上総は言った。
「オサカベの借金をおまえさんに肩代わりさせてから、自殺に見せかけて殺して山に埋めるつもりだったが、やめたやめた。このまま生きて帰してやるよ」
「叔父貴、甘いっすよ!」
色めき立った日向が、猛然と身を乗り出した。実はこれも台本の筋書き通りだ。日向もなかなかの役者である。
上総は「まあまあ。短気おこすんじゃねえよ」と手で制して日向を下がらせた。打ち合わせしておいた通り、日向はあっさり引き下がった。
「ただし、このまま無事に生きて帰るためには、多少の条件がある。交換条件というやつだ」
上総は汚い床に寝転がったままの八丈巡査に、朗らかに笑いかけた。
「どうだい、お巡りさん。ヤクザと取り引きしてみるかい」
「警察は反社会勢力とは取り引きしない」
八丈巡査は絶叫した。怒りに顔を歪めながら身体を起こし、胡座をかいた。
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