キャッチボール

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 1週間後、猪野を始め、プロ入りが決まった3年生はすでに春季キャンプに向かった。他の3年生は受験や入試で忙しく、あまり定食屋に来ない。来るのは1年生や2年生がほとんどだ。若干寂しいが、それでもいつもと同じぐらい賑わっている。  達馬は彼らの進路の事が気がかりになっていた。プロになる、大学に進学する、就職する。どんな進路であっても、うまくいってほしいな。  そんな中、達馬は最近よくここに来ている女が気になった。その女はすでに定食を食べて、じっとしている。その女はどこか元気がなさそうだ。 「どうしたんだろう、あの子」 「元気ないね」  店員も気になっている。こんなにも元気がないなんて、何があったんだろう。 「ねぇ、どうしたの?」  達馬はその女に話しかけた。女は声を上げたが、元気がない。 「何でもないの」  女はテーブル席に座ってじっとしている。気力がないようだ。 「あの子、知ってる?」 「ああ。元マネージャーの室山さんだよ」  横にいた野球部の新キャプテンの松本はその女を知っている。去年の夏まで野球部のマネージャーをしていた室山涼子(むろやまりょうこ)だ。1年生の頃からお世話になっていて、去年の夏の甲子園では記録員としてベンチに入っていた。すでに大学に進学する事が決まっていて、受験勉強は終わっているそうだ。 「ふーん」 「2年生からマネージャーになったんだって」  2年生からマネージャになるなんて。1年生の頃は何をやっていたんだろう。達馬は気になった。 「1年は何やってたの?」 「ソフトボールだって。中学校時代はエースで4番だったらしいけど、けがで退部して野球部のマネージャーになったんだって」  達馬は自分の半生と重ね合わせた。自分は期待されていながらもけがで引退してしまった。そしてそれからは野球部を支えている。まるで自分と似ている。 「へぇ」 「今年の夏の甲子園にも記録員として出ていたんだよ」  その時、達馬は夏の甲子園の事を思い出した。そう言えばそんな記録員がいたな。選手にばかり集中していて、記録員に聞き耳を持たなかった。 「そうなんだ」  達馬は座っている涼子に近づいた。涼子は達馬が近づいているのに気づいていない。 「ねぇ」  涼子は顔を上げた。そこには達馬がいる。まさか店主が来るとは。突然の出来事に涼子は驚いた。 「ど、どうしましたか?」  涼子は戸惑っている。あまり話されたくないようだ。 「なんか悩んでるの?」 「進路の事で」  涼子は進路の事で悩んでいた。だが、卒業してからの事は決めていない。自分の人生なんだから、早く決めないと。 「そっか。好きなようにしなさい」  と、店の従業員がやって来た。従業員は笑みを浮かべている。 「ねぇ、あの定食屋の店主、あの高校の野球部のOBで、元プロ野球選手って、知ってる?」 「そ、そうなんですか?」  涼子は驚いた。高校に進学してから何度も言ったが、まさか高校の野球部のOBで、元プロ野球選手だったとは。だから生徒に、特に野球部に愛されていたんだな。 「うん」  達馬は自信気に答えた。自分はプロ野球選手としては大成しなかった。だけど、こうしてかわいい後輩に囲まれて第2の人生を送っているのを誇りに思っている。  涼子は達馬の経歴を見て、何かを思ったようだ。だが、話そうとしない。 「ありがとうございました」  涼子は代金を払って定食屋を立ち去った。達馬はその後姿をじっと見ている。あの女、気になるな。  翌朝、達馬は開店前に店から出てきた。達馬は黒いベンチコートを着ている。今日もまた1日が始まる。また今日も頑張ろう。  と、涼子がやって来た。朝からどうしたんだろう。涼子は何か悩んでいるような表情だ。 「お邪魔します」 「ど、どうしたの?」  達馬は驚いた。まさか、涼子が朝から来るとは。何があったんだろう。 「公園でキャッチボールしようかなって」 「い、いいけど」  達馬は戸惑った。まさか、キャッチボールを申し出るとは。元プロ野球選手と死って、キャッチボールをしようと思ったんだろうか? 僕はもう引退した。野球はもうやらない。今はただ、野球が好きなだけだ。  達馬と涼子は近くの公園にやって来た。公園は静まり返っている。今日は平日だ。小学校があるので、みんな来ていないんだろう。幼稚園に行く前の子供とその母親が多少いるだけだ。  達馬は持ってきたボールを手に取った。引退する時に、記念にプロ野球チームからもらったものだ。今でも大切に持っている。  涼子はある程度離れた。後ろには誰もいない。周りを確認して、涼子は立ち止まった。すると、達馬は涼子に向かってボールを投げた。引退したとはいえ、なかなかの球速だ。涼子はそのボールを取った。涼子は驚いた。まるでプロ野球の投手のようだ。 「ねぇ、昔、ソフトボールやってたの?」 「うん。エースで4番だったけど、けがで引退しちゃった」  涼子は下を向いた。ソフトボールをしたくて高校に入ったのに、けがで引退してしまった。未来が見えなくなったその時、その姿を見ていた野球部がマネージャーに誘い、マネージャーとなった。それ以後は裏方で野球部を支え、去年の夏で引退した。  涼子は達馬に向かってボールを投げた。威力はそんなにないものの、しっかりとしている。達馬は楽々とボールを取った。 「俺、プロ野球選手だったんだ。だけど、けがで引退しちゃったんだ」 「やっぱりそうだったんだ」  生徒の話は本当だったんだ。やっぱりこの人はかつて、プロ野球選手だったんだ。そして、自分を育ててくれた高校への恩返しの気持ちで、ここで定食屋をしているんだ。 「で、ここのOBってわけだ」 「だから生徒は大久保先輩って言ってるんだ」  達馬は涼子に向かってボールを投げた。涼子はそれを受け取る。涼子は、達馬が先輩と言われて慕われている姿を思い出した。彼らにとって達馬は、単なる店主ではなく、みんなの先輩であり、兄貴のようなんだな。生徒から愛されている姿に、涼子はジーンとなった。 「うん」 「引退した後、後輩を何かで支えたいって思って、ここで定食屋をやってるんだ」  達馬は引退した時の事を思い出した。侍ジャパンになりたかったのに、タイトルを取りたかったのに、活躍できないまま、引退してしまった。その時、野球部の後輩から手紙があって、励ましの言葉が届いたという。その時、彼らのために、何らかの恩返しがしたいという思いがした。そして、食べ盛りの彼らのために定食屋を開き、彼らを支えたいと思うようになった。 「そうなんだ」 「私と境遇が似てるね。私、けがでソフトボールを引退した後、何かで支えたいと思って、野球部のマネージャーになったんだって」  涼子は達馬に向かってボールを投げた。達馬はボールを取った。その時、涼子は思った、自分もよく似ている。他人に進められてマネージャーになったけど、こうして野球部を支えているって、どこか似ているな。 「そう言えばそうだね」  達馬もそう感じた。今まで気づいていなかったけど、マネージャーも野球部を支える仕事だな。 「私、大学に進むんだけど、その後の進路、どうしようか悩んでるんだ」  涼子は少し考えた。いまだに決まらない。早く決めないと。 「そうだね。みんな考えてるけど、好きな事をするのが一番いいと思うよ」 「ふーん」  涼子は何か考え事をしているようだ。達馬はその様子が気になった。考えている事があるんだったら、先輩に話してもいいんだぞ。 「どうしたの?」 「もう大学に行こうと決めたんだけど、卒業したら、何らかの形でこの高校生の支えになりたいなと思って。大久保先輩みたいに」  その時、考えた。マネージャーとして野球部を支えてきた。だから、この経験を生かして、この高校の支えになるような仕事がしたい。用務員でも、食堂でもいい、教員でもいい。何らかの形で支えになれば。そして、みんなに慕われるような人になりたいな。 「いいじゃないの! やってみなよ」 「ありがとう」  涼子は笑みを浮かべた。やっと自分の未来が決まった。その時、曇り空から光が射してきた。まるで、涼子を祝福しているようだ。  3月下旬の昼下がり、卒業式を終えて、高校は春休みだ。定食屋は少し静まり返っている。今日から始まった選抜高校野球の様子を調理の合間に見ている。聖水学園高校は明日に試合がある予定だ。  現在、よくここに来るのは運動系の部活に入っている高校生だ。野球部は甲子園に行っているものの、他の部活の多くは練習をしていて、お昼や夕方になるとよく訪れる。  と、そこに1人の女がやって来た。涼子だ。涼子はすがすがしい表情だ。来月からの新しい生活に胸を躍らせているようだ。 「明日、東京に行きますんで」 「そっか」  達馬は笑みを浮かべた。明日から新生活。色々苦しい事があるかもしれないけど、夢に向かって頑張ってほしいな。 「ハンバーグ定食で」 「わかりました、ハンバーグワン!」  涼子はテレビで選抜高校野球を見ている。そして、野球部と過ごしたマネージャーとしての日々を思い出している。とてもいい日々だったけど、もう終わった。4年後、今度は何らかの形でみんなを支えたいな。 「ここの味、忘れんなよ」 「うん」  涼子は笑みを浮かべた。これから4年間、東京に行く。できれば、ここに戻って生徒を支える仕事に就きたいな。そして、またここの定食を食べたいな。 「東京でも頑張ってこいよ」 「うん」  達馬は涼子の肩を叩いた。涼子は嬉しくなった。達馬も応援している。期待に応えて、4年間の大学生活を頑張ろう。そして、ここに戻って、生徒の役に立つんだ。
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