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昼下がりの午後、今日は久しぶりにお互いの休みが合う日だっだ。雪の家で、ソファに二人並んでまったりと過ごしていた。白いレースのカーテンがふわりと揺れる。六月にしては爽やかな風が入り込んでいた。もうそろそろ梅雨があけるのだろうか。夏の気配を感じるような少し強めの日差しが窓から差し込んでいた。 二人で座るには小さめなソファだった。買い替えようか、なんて話も出たが、なんだかんだこのソファで落ち着いてしまった。座るたびに雪の肩や、腕が触れる。いつでも触れ合える距離にいることをいつも実感させてくれた。俺は少しの窮屈を感じるこのソファが気に入っていた。何をするでもなくここで二人並んで過ごすのが週末のお決まりだった。   来月は雪の誕生日だった。はじめて二人で迎える誕生日。何か欲しいものがあるか?と聞いてもピンとこないようだった。しばらく考えこむと、思い出したかのように「蛍、見てみたいなぁ……」と小さな声で言った。 蛍なんて地元で当たり前のように見てきた俺には、そんなもので良いんだろうかと思ったが、東京で生まれ育った雪にはめずらしいものだった。 「昔ね、小さい頃テレビで見たんだ。すっごく綺麗でね、いつか本物を見てみたいなぁって思い出して……」 昔の記憶に思いを馳せているのだろうか。窓の外に目を向け、遠くの方を見ながらぽつりぽつりと話した。その横顔に少し影がかかる。幼い頃から病気がちで何度も入退院を繰り返していたと聞いていた。そんな幼い頃を思い出したのだろうか。そう話す雪が寂しげに見えた。俺は雪の形の良い後頭部をそっと撫でた。 「じゃあ、俺の地元行ってみる?」 「え?秋くんの?」 「そう。ちょうど蛍祭りやるんだよ。広い河川敷があって、そこで蛍が見れるんだ。何もないところだけど、蛍だけは有名なんだよな。日本で最大って言われてるくらいだから、」 「すごい!行ってみたい!」  食い気味に返事をする雪に思わず頬が緩んだ。 「じゃあ、決まりな」 「うん!」 「そうだ、せっかくだから一泊する?俺、結構有休たまってるし。雪も研究がひと段落する頃だよな?」 「う、うん…」 さっきとは打って変わって歯切れの悪い返事だった。 「やっぱり忙しい?無理にとは言わないけど…」 「あ、ち、ちがうの!研究のほうは大丈夫。ただ旅行って初めてだなって思ったら胸がいっぱいになっちゃって……」 雪の頭がゆっくりと俺の肩にもたれかかる。小さく遠慮がちに俺の肩に寄せてきた。雪の耳が赤くなっていた。 照れながらも、最近ようやくこんな風に雪から甘えてくれるようになった。肩越しの小さな重みが何よりも愛おしかった。   それからの雪は、まるで子供が遠足を待つかのようにソワソワとしていた。 『蛍の写真を撮りたい』 と意気込んで新調したカメラをちょっと自慢げに見せてきたり、さすがに『ホタル百科事典』を真剣に読見込んでいた時はあまりにも雪らしくて笑ってしまった。どんな生態なのか予習しておきたいらしいそうだ。分野は違えど大学院で薬学の研究をしているだけのことがあるな、などと一瞬思ったが、真面目な雪の性格がそうさせるのだろう。   ある日、雪の部屋に見慣れないものが飾られていた。雪のリビングはかなり質素で、あくまでも機能性を考えたような部屋だった。そのリビングの壁にカレンダーが飾られていたのだ。数字と曜日に簡単な暦、カレンダーとしての機能が最低限備わっているようなものだった。 そのシンプルなカレンダーに不釣り合いな赤いマークがついていた。ある日付だけ、大きくテストで満点をとったような赤い丸で囲まれていた。その日付が蛍を見に行く日だと気づいた時、胸にじわりと愛おしさが込み上げた。 雪はカレンダーの前を通る度に、その赤いマークに触れていた。まるでそのマークに愛情を込めるかのように、嬉しそうに撫でていた。こんなに無邪気に楽しそうにしている雪を初めて見たかもしれない。   旅行まであと十日という時だった。一体なんの不運なのか。同僚が体調不良で倒れ、その代わりに出張へと行くことになってしまった。それがまさかの雪との約束の日だった。楽しみにしていた雪を思い出して俺は頭を抱えた。どう切り出せば良いのだろうか…雪の気持ちを思うと胸が苦しかった。   その日、早く仕事を切り上げた俺は雪に電話をした。確か今日は授業が少ない日で、この時間にはいつも家にいることが多かった。 「もしもし、あれ?秋くん?どうしたの?こんな時間に電話なんて珍しいよね?」 「うん、今日少し仕事が早く上がれたんだ。これからそっち行っていいか?」 「うん。もちろんだよ」 「急でごめんな」 「ううん、むしろ会えて嬉しいよ。今からだと…七時くらいだよね?」 「あぁ、たぶんそのぐらいには着くかな」 「そっか。分かった。気をつけてきてね」 「駅に着いたらまた連絡するな。じゃ、また後で」 はぁー‥‥ 電話を終えると大きなため息が出た。 駅に着き、雪に連絡しようとしたその時、改札に見慣れた姿が見えた。雪が待っていたのだ。俺の姿を見つけるとホッとしたような顔を見せて駆け寄ってきた。 「雪…?迎えにきてくれたのか?家で待ってくれてて良かったのに」 「うん、そう思ったんだけど…秋くん、なんかあったのかなって。声もちょっと元気なかったし…そう思ったらじっとしてられなくて」 「雪……」 俺は一眼も憚らず思わずそのまま雪を抱きしめた。 「あ、秋くん、ここ駅だよ……?」  恥ずかしがる雪の首筋から汗の匂いがした。暑い中待ってくれていたのだろう。あの短い電話口で自分の様子を気にして心配してくれる雪にますます胸が痛んだ。  雪の家に着くといつものソファに座った。まるで定位置かのようになった俺の右隣に雪も座る。俺は意を決して正直に話すことにした。  「雪、あのな、実はな、旅行の日なんだけど…」 「もしかして、ダメになっちゃった?」 「え…?なんで…?」 雪の口から意外な言葉が出て俺は戸惑った。 「うん、なんかね、そんな気がしてたんだ……」 「ごめん…同僚の代わりに出張に行かなきゃいけなくて…」 「そっか……うん。でもお仕事なら仕方ないよ」 雪は俺を気遣うように笑顔を作った。 「雪…ごめんな」 「ううん、大丈夫だよ。僕は大丈夫だから」 その言葉とは裏腹に、胸元で硬く握りしめられている雪の手元に目がいった。白い肌が指の圧で赤くなっていた。 その固く握りしめられた手に触れようとした瞬間、「あ、そうだ、秋くん、お腹空いてるよね?ちょっと待ってて」 そう言ってパタパタと急ぐように雪はキッチンへと向かった。  俺は雪の手に触れようとしていた、情けなく空に浮いた自分の手を見た。雪自身、気づいていないようだが、不安や何かを我慢する時、雪は決まってあんな風に手を握り締める癖があった。雪と付き合いはじめてからも何度か見てきた姿だった。まるで言い慣れたかのように「大丈夫」とくり返し言う雪。それはこれまで雪がいかに色んなことを諦めてきたのかを物語っているようだった。そんな雪の姿を見るたびに胸が苦しくなるのと同時に、もどかしさを感じていた。 大雪での再会のあと、俺と雪は晴れて恋人と呼ばれる関係になった。雪は東京で進学して、今は薬学部の大学院生となっていた。どこの部屋も綺麗に整理整頓されている中、いつもデスクの上だけは難しそうな文献や書類が山積みになっていた。ゼミの研究に、時折教授の付き添いで学会に行くこともあった。どんな研究をしているのかは詳しくは分からなかったが、薬の開発に関わっているようだった。  あの高三の冬のあと、雪について知っているのはこれぐらいだった。実質学生である雪とは中々休みを合わせるのが難しかったが、連絡は毎日のようにとっていたし、週末には必ず会っていた。初めて体を繋げたあの日からも、何度もしていた。普段の雪からは想像つかないが、雪は意外とそういったことに積極的で、恥じらいながらも雪から誘われることも多かった。 ごくごく普通に恋人としての時間を過ごしていた。 だけど、なぜ突然東京へと帰ってしまったのか、あの別れのあと何があったのか、俺は知らなかった。雪も話そうとはしなかった。 一度だけどうしても気になり雪の病気のことを聞いたことがあった。雪が言うには『治った』らしい。心配しなくても大丈夫だよ、と言ってそれ以上のことは口にしなかった。でも、今でも少し無理をするとすぐに熱が出たり、寝込んでしまうことを俺は知っていた。 『大丈夫だよ』そう口にするときの雪の目は静かになる。まるで波の立たない湖のようだと思う。雪の瞳の奥に広がる湖。その奥深くに不安や孤独が沈んでいるかのようで、決して俺には見せようとしなかった。どんなに一緒に居ても、どんなに体を繋げようと、どうしようもなく遠くに感じてしまう。その湖には一向に近づくことが出来ないのだ。   中々キッチンから戻らない雪が気になり、ソファから立ちあがろうとすると、あのカレンダーが目に入った。何だか違和感を覚えて近づいて見ると、マークの色が掠れていた。よくよく見てみると指で擦ったような痕になっていた。カレンダーの前で時折立ち止まってはそのマークを見ては嬉しそうにしていた雪を思い出した。きっと何度も何度もここに立ち止まっては指でこのマークに触れていたのだろう。インクが掠れるほどに。  こんな小さなマークに雪の想いが詰まっているようだった。俺はそっとそのマークに触れた。掠れたインクは少しざらざらとした手触りだった。そのマークに触れながら、雪が『蛍を見たい』と話した時のことを思い出す。小さな声で、遠慮がちに、でもほんの少しの期待を込めるようだった。それは、まるではじめて自分の望みを口にするかのようだった。雪の小さな願いだった。  俺は横に置いてあったペンを勢いよく取ると決心するかのように強く握りしめた。そしてそのペンで掠れたマークの上から色を重ねた。もう一度赤く、むしろ前よりも濃く色を重ねてあげたかった。雪の願いを叶えてやりたいと思った。そして、少しでも雪のあの湖に近づけられたらと思った。俺はこの赤いマークに誓うように、何度も色を濃く重ねていった。  翌日、俺は出勤すると上司の綾瀬さんを昼食に誘った。そこで出張行きをどうにか辞退できないかと相談することにしたのだ。同僚の代わりとはいっても大きな仕事だった。今後の評価につながるような仕事でもある。そんな簡単に聞き入ってはもらえないことを覚悟の上で、俺は綾瀬さんに頭を下げた。すると、綾瀬さんはふたつ返事で「いいですよ」と言ってくれたのだ。 「え?いいんですか……?」 こんなにもあっさりと了承が得られるなんて思わなかった。自分でも思うほど間抜けな返答だった。 「あの福島商事との取引ですよね? あそことは何度も仕事してますし、資料さえ頂ければ何とかなりますから」 突然のことにも関わらず、いつもの冷静な綾瀬さんだった。 綾瀬さんは新卒の頃からお世話になっている上司だった。シャツのボタンをいつも一番上まできっちりと留めていて、仕事に対しても、人に対しても、厳しい人だった。その完璧さが故に少し近寄り難い雰囲気があった。かなり緊張していた俺はとりあえず了承を得られたことに胸を撫で下ろした。 そんな俺を見て、綾瀬さんが口元を押さえながら小さく笑った。 「あ、すみません。笑うなんて失礼でしたね。でも、君の様子があまりにも素直だったもので」 「あ、す、すみません」 そんなに態度に出ていたのだろうか。俺は咄嗟に謝った。 「いえ、咎めてるわけじゃないんです。ただ…君は最近、本当に変わりましたね」 「そう……でしょうか?」 思いがけない言葉だった。 「案外、自分では気づかないもんなんですよね」 綾瀬さんは当時を懐かしむように話した。 「君は入社した時からどんな仕事も何でもそつなくこなすし、センスも良かった。とても仕事が出来る子だなと思ってました。でも、新卒で入ってくる子はなんていうのかな、いかにも体育会系な子が多いんですよ。特にうちの部署はスポーツをやっていた子がほとんどですしね。でも、君はスポーツをやっていた人特有の、いや……スポーツは関係ないのかもしれないですね。とにかく、君自身から熱さや活気が全く感じられなかったんです」 綾瀬さんから言われて心当たりはあった。雪と再会するまではまさに綾瀬さんのいう通りだった。まるで感情がなくなったかのようで、ただただ日常をこなしていくだけだった。 「でも、なんだか安心しました。君がこんなにも感情を出して、必死に何かを頼んでくる姿を初めて見ましたよ。個人的には、君のそんな様子を見れて上司としては嬉しい限りです」 綾瀬さんがこんなにも自分のことを見てくれていたなんて知らなかった。自分の内面を見てくれていたことに有難さと同時に気恥ずしさもあった。 これまで和やかだった空気が少し変わり、より一層真剣に、訴えかけるように綾瀬さんが続けた。 「君にとって何か大事なことがあるのでしょう? 仕事も大事ですが、人生には外しちゃいけないタイミングがあると思うんです。それをぜひ大切にしてほしい」 それを聞いて、雪と初めて出会った日から、今日に至るまでの出来事を思い出した。綾瀬さんの言葉ひとつひとつが、痛いほど胸に響いた。 「綾瀬さん、ありがとうごいます」 俺はこの出張のことだけではなく、これまでの綾瀬さんの心配りに感謝しながら、もう一度深く頭を下げた。 そんな俺を見て、綾瀬さんは満足そうに目だけで笑った。    雪との約束の日。 俺と雪は都内でも有数のホテルのレストランに来ていた。 綾瀬さんのおかげで休みは取れたが、仕事のフォローに周っていたこともあり、流石に一泊するほどの余裕はなかった。その代わりと言っては何だが、とびきり贅沢 に誕生日のお祝いをさせてほしいと俺は雪に提案したのだ。雪は、本当に仕事が大丈夫なのか、無理をしていないかと、ここでも俺の心配ばかりをしていたが、上司からの配慮があったことを伝えると安心しつつも喜んでくれた。 大きな窓際の席に通されていた。いつもとは慣れない雰囲気に緊張していた雪だったが、乾杯で口にしたシャンパンがだんだんと効いてきたようだった。頬を上気させながらもだいぶリラックスしていたようだった。 一通り食事を終えると、俺はさりげなく雪に言った。 「少し酔い覚ましに散歩して行かないか?ほら、ここから見えるだろ?庭園が有名らしいんだ」 「わぁ、いいね。うん、行ってみたい」 楽しみだな、と窓の外をワクワクしながら見てる雪に、俺はごく自然に庭園へと誘えたことに密かに安堵した。 少しおぼつかない足取りの雪の手を取り庭園へと歩いた。いざ園内へと入るとその広さと美しさに圧倒された。五十年以上もの歴史があるだけあってとても丁寧に手入れされていた。どこか懐かしさを感じさせるような、趣のある日本庭園だった。様々な木々や植物を引き立てるかのようにライトアップもされ、幻想的な光景が広がっていた。 「うわぁ、すごいね…気持ちいいね…」 これだけ緑があると都会のど真ん中でも全然空気が違う。雪も同じように感じているのだろう。連日熱帯夜が続いていた夜とは思えないほど涼しかった。青々とした楓が風に吹かれてカサカサと音を立てた。心地の良い風だった。火照っている体を冷ましてくれるのに丁度良い。雪の酔いもいくらか冷めたようで頬の赤みも落ちついていた。 さらに庭園を進んでいくと、水の流れる音が聞こえる。小さな川が流れていたのだ。その川の上には向こう岸へと繋ぐアーチ状の橋がかかっていた。その橋は神社の鳥居のような朱色をしていて、夜の庭園に異様に映えていた。歴史を感じさせられる重厚感のある橋だった。 確かこのあたりだった。 そろそろきっと見えてくるだろう。 横で歩く雪に小声で声をかけた。 「雪、見てみ?」 「秋くん?なんで小声なの?」 俺に釣られて小声で返す。 「いいから、ほら、見てみな」 「え…?」 雪が俺の指差す方を見る。すると、ライトアップとは違う小さな光がふわふわと浮かんでいた。静けさの中、雪の息を呑む音が聞こえた。 「すごい…もしかして、これって………」 その小さな光の正体は蛍だった。 目の前にはたくさんの蛍が飛び交っていた。   このホテルを選んだ本当の目的はこの庭園だった。毎年梅雨から初夏になると、庭園で育てられている蛍を公開するイベントが行われているのだ。雪にはサプライズにしようと黙っていたのだ。蛍祭りまでは行けなくても、どうにかして蛍をどこかで見れないかと必死で探していたところに、ちょうどこのイベントを知った。しかも一席だけ予約が空いていたのだ。 「すごい…秋くん、すごいね、まるで夢みたい…」 雪は初めて見るその光景に少し興奮ているようだった。夢中になって目で蛍を一生懸命追っていた。俺も久しぶりに見る蛍の美しさに見入ってしまった。 ふと気がつくと、隣で一緒に見ていたはずの雪の姿がなかった。あたりを見まわすとさらに川の方へと歩いていく雪が見えた。まるで光に誘われるかのように、蛍の後を追ってふらふらと歩いていた。その先には川にかかるあの朱色の橋があった。橋の奥はここよりもライトアップの明かりが絞られていた。まるで、暗闇の中へと進もうとしていくような雪に、思わず「雪!」と大きな声で呼び止めてしまった。 俺の声が場違いのように響いている。 「秋くん…?」 俺の声に気がついたようで雪が振り返った。 急に足元から血の気がひけるような感覚が俺を襲った。俺はシャツの胸元をぐしゃっと掴んだ。シャツの下で心臓が波打っていた。さっきと変わらない風が吹いているはずなのに首筋につつ、と嫌な汗が流れる。雪があの暗がりにまるで消えてしまうのではないかと思った。蛍と共にどこかに消えてしまうのではないかと。そう思った瞬間、堪らなかった。 自分の靴先しか見れないほどに俯いていると、雪が戻ってくる気配を感じた。 「秋くん…?」 頭上から雪の声が聞こえた。 「ご、ごめん。何でもないから」 やっとの思いで絞りだした声は自分でも驚くほどひどく掠れていた。シャツを握りしめる手の震えが止まらない。その震える俺の右手を雪がそっと取った。そろそろと顔をあげると、そこには雪がちゃんと居た。雪は優しく微笑むと、汗で額に張り付いていた俺の髪をそっと直してくれた。その手つきがあまりにも優しくて、俺を安心させるかのように微笑んだ雪の顔が涙で滲んだ。 「……秋くん、一緒に行こう?」 雪が俺の手をひいた。地面に縫い付けられたかのように動けなかった足が一歩、前に出た。手を引かれながら橋を渡っていった。雪の手の温かさが指先から体全身へと流れ込むようだった。だんだんと気持ちが凪いでいく。一歩一歩、確かめるように歩いていった。橋を渡り切ると細い道が続く。そして、道を抜けると開かれた場所にたどり着いた。あんなに真っ暗だと思っていたそこには、さっきの比ではない数の蛍が飛び交っていた。蛍の光だけで照らされているようで、まるで暗がりでしか見えない星のようだと思った。その光景を二人並んでしばらく眺めていると、雪が口を開いた。 「秋くん、知ってる?蛍の光ってね、求愛の光なんだって」 星空が落ちてきたかのようなその光景に、そのまま目を向けながら雪は続けた。 「でもね、こうやって光を出せる成虫はね、一週間しか生きられないんだ。ほとんどの時間を水中で過ごして、子孫を残すためにわずかな時間でこうやって光らせてるんだよ」 手を握る雪の力が強くなった。 「すごいよね。命の光なんだよね。だからきっと、こんなにも小さいのに明るくて、強い光なんだろうね」 雪の瞳は蛍を捉えたままだった。薄茶色した雪の虹彩に蛍の光が映り込んでいた。なんて綺麗なんだろう。その光は蛍よりも、どんな光よりも美しくて強い光だと思った。いつまでもその光を見ていたい、そう思いながら雪の瞳に逸らせずにいると、雪と目が合った。ずっと蛍に向けていた目を俺へと向けたのだ。 「秋くん、ずっと一緒にいようね」 迷いも躊躇いもない声だった。雪のその言葉は、俺の胸に光を灯した。 雪がまた、俺の手を強くぎゅっと握った。それは、あの時、俺の小指を握ってきた強さよりも何倍も強く、そして何倍も何倍も優しく温かった。 俺は、雪の手を握り返し、声が震えそうになるのを必死に堪える。 今、この瞬間、目の前にある奇跡のような光景を目に焼き付けながら答えた。 「ああ、ずっと一緒にいような。これからもずっと、ずっと一緒に」 煌めく命の輝きに、願いを込めるように。
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