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淡雪
「中條雪です。よろしくお願いします」
高二の冬というめずらしい時期に転入してきたのが雪だった。
はじめて雪を目にしたとき、高二にしてはひとまわり小さな身体が病気療養をしていた、というのを物語っていた。そしてその名前のように肌の白さがとても際立っていた。
こんな田舎に東京からの転入生。
それだけで雪はクラスの注目の的になっていた。はじめは物珍しさからクラスメイトから話かけられていたが性格が内気なのか、あまり会話が弾むようなところは見なかった。
一月ほど経っても雪はクラスに馴染めずいつも教室の中から窓の外を眺めていた。
ななめひとつ前、窓際の席。
俺はその席に座る雪の姿からなぜか目が離せなかった。ぼんやりと外を眺める横顔、陽の光が透けてしまうのではないかと思うほどの白い肌。そんな雪をみてるとなぜだかたまらない気持ちになった。儚いとはこういうことを現すのだろうか。
いつか消えてとけてしまうのではないか…そう感じずにはいられなかった。
小さい頃から続けているサッカー部の部室へと向かおうとしていると、部室の前でしゃがみこんでいる人がいた。どうしたんだろう、と駆け寄るとすぐ側にはサッカーボールが入っているカゴが倒れていた。
「おい、大丈夫か?」そう声をかけると
「あ…うん…ちょっと擦りむいちゃって…」と小さな声で答えたその人は、雪だった。
その膝を見ると少し血が滲んでいた。
真っ白な膝に真っ赤な血が。
痛々しそう、そう思うと同時に真っ赤に映えたその膝を見ていると何故だかお腹のあたりがざわざわとした。見てはいけないものを見てしまったような気がして、とっさに持っていたタオルで膝を押さえてやった。
「あ、いいよ!汚れちゃうから…」
「いや、こっちこそ勝手にごめん。止血しといたほうがいいと思うし。立てるか?」
雪を立たせようと手をのばしかけたところで一瞬触れることをためらってしまったが、怪我してるだけだ、と思い直して手を貸してやった。
「それよりこれさっきの授業の片付けだろ?なんでお前一人でやってんだ?」
「ああ、うん、僕体育は見学しか出来ないから片付けとかそういうのだけでもやりたいなって…本当は僕もサッカーとかしてみたいんだけど…」
視線を転がったボールに目を向けながら話す雪は寂しそうだった。
「手伝ってやるよ」
自然と口から出た言葉だった。
「え…でも…」
「いいから、それじゃあ、やりにくいだろ?早くやっちゃおうぜ」
「うん…ありがとう……秋くん」
そう言って少しはにかみながら初めて名前を呼ばれた。秋人(あきひと)という名前だけど大抵はみんな秋、と呼ぶ。
秋、秋くん、いつも友達から言われ慣れている名前。それなのにどうしてか雪に呼ばれると特別な気がした。
翌日、帰宅しようと教室を出ようとしたとき、雪に声をかけられた。
「秋くん、これ……」と手渡されたのは見たこともない綺麗な包装紙に包まれたものだった。
「昨日貸してくれたタオル、ごめんね。洗ったけど落ちなくて……秋くん気にいるか分からなかったんだけど、もし良ければ使ってくれる?」
包装紙の中身は濃紺のような色をつかったタオルハンカチだった。
「あんなの大したことなかったのに……逆に悪いな。でも、ありがとう」
雪が選んでくれたもの。
そう思ったらとても部活でなんか使えないな、と思った。大事にしよう。そっとカバンにしまおうとしていたとき、
「あの、秋くん」と呼び止められた。
「えっと……今日って部活はないの?」
「ああ、うん。水曜日は休みなんだ」
「そうなんだ……あの、一緒に帰らない…?」
「え?」
思いがけない言葉に一瞬固まってしまった。
「あ!ごっごめん、用事?とかあるよね!サッカー部の子とか、誰かと約束してたりするよね!全然大丈夫!いきなりごめんね、じゃあ、」
「待って!」
そのまま帰ろうした雪の手を思わず掴んでしまった。
なぜとっさに掴んでしまったのだろう。自分でも自分の行動に驚いていた。なにか、なにか話さなければ、そう思えば思うほど喉がつまったように声が出にくい。
「……ないから。ない。約束とか用事も何もないから」
やっと出た言葉だった。
「……ほんと?じゃあ帰れる…?」
「………うん」
「よかったぁ」
俯きがちにそう答えた雪の顔は耳まで真っ赤だった。
離すタイミングを失って雪の手首を掴んだままだったことに気づいた。自分の手の平がひどく熱い。雪はますます赤くなるばかりだ。
この熱が伝わって雪の肌を染めているのではないか。このまま熱さで焦がしてしまいそうだ。そんな馬鹿げたことを考えてしまう。だけど、このままいつまでも離したくないと思った。
それから毎週水曜日は雪と一緒に帰宅する流れに自然となっていった。学校から家までの道のり、歩いて約十五分。たかが十五分の道のり、ぽつぽつとお互い他愛のない話をするだけ。
雪もあまり口数が多いほうではないけれど、いつも雪から一生懸命話をしてくれた。それなのに、あぁ、とか、うん、とか俺は短い言葉でしか返せなかった。
寒さで赤くなった頬だとか、強い風が吹くとマフラーに口元を埋める仕草、少し長めの前髪をときおりくすぐったそうに掻きわける細い指。そんなことばかりが気になってしかたなかった。
こんなことを考えていると知られたら雪はどんな反応をするんだろうか……
少しの罪悪感と共に過ごす十五分の道のり。
でも、もっと長く居たい。そう思うほど居心地も良かった。
冬のピンとはりつめた空気の中、「秋くん」と呼ぶ声だけがたまらなく暖かく感じた。
冬に雪が転入してきて数ヶ月、季節は春へと移ろいでいこうとしていた。
今日もいつものように雪と帰っていた。だけど、今日は雪の様子がおかしかった。やけに口数が少なく、俯きがちだった。なにかあったのか?と思わず聞こうとした時、突然雪が立ち止まった。
「秋くん…」
「どうした?急に」
「あのね、今日秋くんにどうしても伝えなきゃいけないことがあって……聞いてほしい」
「あぁ、うん……どうしたんだ?」
なんだか妙な緊張感があった。
少しの沈黙が流れたあと、何かを決心したかのように話しはじめた。
「秋くん。僕、僕ね……秋くんのことが好きなんだ」
いつも俯きがちに話す雪がまっすぐと俺の目を見て告げた。
緊張からなのか、肩が震えていた。
そんな俺はなにも言えず、ただただ雪を見つめ返すことで精一杯だった。
「こんなこと急に言って驚かせてごめん……ずっとずっと秋くんのことが好きだったんだ。同じ高校、同じクラスだけでも嬉しかったのに、話しかけてくれて、話をきいてくれて、一緒に居てくれて。本当に嬉しかった。本当に、本当にありがとう」
今にも溢れ出しそうなくらい目に涙を浮かべていた。
「でも、返事はいらないから。どうしても好きだって気持ちを伝えたかっただけなんだ。だから……聞いてくれてありがとう」
立ち止まっていた雪がふいに近づくと、俺の手をそっととり小指をきゅっと握った。
雪の手は想像していたよりも小さく、でも握る力は強かった。
「秋くん…大好きだよ…ありがとう」
小指を握りしめながら話す雪の目から涙が落ちた瞬間、そっと手が離れた。
「じゃあね」と小さく言うといつもの分かれ道の角を曲がり去っていってしまった。
俺はなにも言えずにただ雪が去っていた背中を見つめるだけだった。雪の姿が見えなくなっても俺はその場から動けず、ただただその道の先を見ていた。
ふと自分の小指に触れるとまだ熱が残っていた。俺はその小指を何度も自分で握り熱が残っていることをいつまでも確認していた。
翌日、どんな顔で雪と会ったら良いのだろうか、なんて言えば良いのだろうか、そう思いながら登校すると、雪の姿が見当たらなかった。
なんだろう、とっさに嫌な予感がした。
ホームルームがはじまろうとして、いつものように担任の岩田が教室に入ってきた。
「実は急なんだが、中條が東京に戻ることになった」
「え……」
俺の頭は一瞬で真っ白になった。
「家庭の事情で、昨日の便で帰ることになってしまったんだ。本人もとても残念がっていたんだが……」
教室がざわついている、岩田がなにかを話している。それなのに俺はなにひとつ聞こえなかった。自分の心臓がドクドクと嫌な早さで鳴る音だけが聞こえる。
小指をそっと握るともうあの熱はなくただただ冷たい感触だけだった。その冷たさが虚しいことに俺の気持ちを冷静にしていった。
ななめひとつ前、窓際の席。
いつものようにそこを見つめると当然雪の姿はなかった。ぼんやりとその席を眺めていると窓の外で雪がチラついていることに気づいた。
儚く消えていく春の雪、淡雪だった。
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