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陣内のバイト先は、かつて半田も働いていた店だ。
就職してからはなかなか足を運ぶ機会もなく、最寄り駅に降り立つのすら久々だった。
ガラス張りの店内から漏れる、オレンジ色のあかり。
角張った手書き文字で書かれた黒板。
遠目から外観を眺めるだけで、もう懐かしかった。
半田は、カウンターに佇む陣内の姿をガラス越しに伺い、込み上げてくるまろやかな甘みを飲み下した。
「遅かったですね」
ドアを開けると、彼はカウンターに両手をついて笑みを浮かべた。
店はあと5分で閉店だ。今日は客入りが少なかったのか、閉め作業もほとんど終わっているらしい。
カップにはクロスがかけられ、椅子類の大半はテーブルの上に重ねられている。
「ごめん。帰りがけに上司につかまっちゃった」
遠目からさんざん眺めていたのに、いざ視線を向けられると、なんとなく彼の顔が見られなかった。
「あれ、よっしーは?」
いつもならひと気を感じるとバックヤードから吉津が顔を出すのだが、その気配がない。
「店長は休みです。今日はもう俺だけ」
ふたりきりという現実を突きつけられた途端、手のひらが汗ばんできた。
「半田さん、座って」
陣内はカウンター席の椅子を引いて、半田に着席を促すと、店の黒板をしまって入り口をロックした。
それから、バーカウンターへと回る。
ラフなTシャツとエプロン姿が、よく似合っている。キャップを被っているせいか、先日より目元がはっきりと見えた。
丸い瞳のせいだろうか。背は高いが、顔立ちはどこか幼さを感じさせる。
「めっちゃ見るね」
「え?」
カウンター越しに言われ、はっとする。そんなに露骨だっただろうか。
彼はキャップごと後頭部を押さえながら、あえて視線を逸らしたままでいる。
「いや、全然いいですけど。照れちゃうな」
そのうちに蒸気が天井にのぼり、彼をぼんやりと隠してしまった。
無自覚を恥じて、半田は自分の手元に視線を落とした。
オレンジの暖かい光と適度な雑音によって、尖っていた意識が削ぎ落とされていく。
だいぶまろやかに溶かされたところで、頭上から大きな影がのびてきて——我が身をすっぽりと覆った。
視界の右手の近くに、マグカップが入り込んでくる。
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