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舌打ちが聞こえた。
気がつけば、俺はコンクリートに転がり悶えながら必死に酸素を取り込こんでいた。凄まじい握力で潰されかけた喉が、焼けるように痛み熱をもつ。霞む視界の中でなんとか顔を上げれば、首を絞めていたままの体制で佇む男が、此方を見下ろしていた。
「あぁ……、面倒くさい」
苛つくような声とは裏腹に、赤い唇は楽しげに吊り上げられている。
「君、惹きつけちゃう体質?」
そう言われて、ようやく気がつく。
己の体を見なくても、纏わりついてきた正体が何かなんて容易くわかる。
どっと湧き出した冷や汗が、首筋を伝った。
胃液が迫り上がる程の不快感が全身を駆け巡る。
這いつくばりながら、そっと足元を見れば、
「…………っ、ひ!」
コンクリートから生えだした人間の手があった。
ヤツを認識した途端、足元のコンクリートから無数の腕が一気に伸びだす。
「ぅ、ぁああああああーー……っ!!」
逃げようとする俺の体に、太い腕が何本もギリギリと絡みつく。それは、容赦なく全身を絞め上げた。
「な、んで……、どうして……。ここまで、ここまで逃げてきたのに…………っ!?」
俺は、半狂乱しながら泣き喚く。
けれど、いくら藻搔いたところで腕は振り解けない。とうとう体のどこも動かせない程絡みつかれた俺は、無様にコンクリートへと頬をつけるしかなかった。
コンクリートが震え、異臭が漂い始める。
息をつめて目を凝らせば、目の前から生えてきたのは、顔だった。
髪も眉も抜け落ちて、まるで女か男かも分からない人間の形をしただけの化け物が、俺を間近で覗き込む。
眼球はぐるりと回って白目を剥き、ケタケタと愉快そうに笑う声が屋上に響いた。
涎を垂れ流した口が、此方に向かってパッカリと大きく口を開けた。
腐敗臭と共に、濁声が告げる。
"今日こそ、食べてあげるよ"
理解した時、俺は絶叫した。
「い"や"だぁあああああああっ!!!!!」
全身の震えが止まらない。
未だ焼かれる様に痛む喉が、汚い濁音を撒き散らす。力の限り絡みつく腕を振り払おうとするが、無力な芋虫のようにもがく事しかできなかった。
俺は力の限り手を伸ばす。
それは、もはや藁にも縋る思いだった。
震える指先は、化け物の向こう側に佇む男に向けられた。
「ぜんぜぇ、だずげで………っ」
掠れた声は、確かに届いた筈だった。
けれどーー……
彼は、興味なさそうに肩をすくめるだけだった。
「どうして? 死にたかったんでしょう? おめでとう。これなら確実に殺してもらえそうだ」
猫撫で声が、良かったねと俺を諭す。
にっこりと優しく微笑む姿に、絶望した。
違う。違うんだ。
「ぢがゔ……」
良くない。全然良くない。
「だ、ず、け、て……」
だって、だって、
「……ぉ、れ、は………」
"ヤツら"から逃げる為に死のうとしたのだから。
先生は、口元に笑みを浮かべたまま、芋虫の様に転がる俺を、静かに見下ろしていた。
そうしている間に、ヤツの口が目前に迫る。
「ぁ、あ、ぁあ…………」
恐怖に、カチカチと歯が鳴る。
尖った歯並びの悪い歯が、ついに頭皮に食い込んだ。激痛と共に、裂けた皮膚から血が噴き出すのを感じた。溢れ出た生温い血は、顔面を伝ってコンクリートとワイシャツを容赦なく汚す。
抵抗できないまま俺の体から力が抜けると、化け物は悦ぶようにヒクヒクと喉を引き攣らせた。
抵抗する意思は、腐敗臭と共に呑み込まれてゆく。
完全に視界が閉ざされる寸前、霞む視界の片隅で潮風に吹かれた白衣が揺れた。
陽の光を反射するその美しい純白に、目がくらんでーー……
「ご、ろ、して……」
気づけば、俺は叫んでいた。
「ごろじて! あん、たが、おれを殺して、いいがらっ…………」
やめろ、
「だから」
それだけは言ってはいけない。
……なんてことを言ってくれる理性は、とうにカケラも頭に残っていなかった。
「だから?」
「だからっ!」
問いに、力一杯答える。
「だから……! 助けてっ…………!」
視界が、開ける。
それは、一瞬の出来事だった。
***
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