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太陽の熱に照らされて、気がつけば血に染まった屋上は元の錆びれた姿に戻っていた。
俺の体についていた血も、目の前の教師に塗れていた血も、まるで塵のように潮風に舞い上がり、空気に溶けて消えてゆく。
蹲ったまま呆然としていると、頭上から声がした。
「さて、約束は守ってもらおうか」
見上げると、瓶底眼鏡が此方を向いていた。
よろよろと立ち上がり、自分よりも背の高い男の顔を見返す。こんな状況なのに、誰かに見下ろされるのは久しぶりだな……なんていう現実を逃避する思考が巡ってしまった。
俺は、痛む喉に鞭を打って答えた。
「はい、守りますよ。どうぞご自由に」
「やけに潔いね。その心は?」
首を傾げながらそう問われる。
問いの答えを思案して一度沈黙するが、答えなんて簡単で、滑るように口から漏れた。
「どうせ、食べられるなら」
「……なら?」
「歯並びの良い方が、いい」
沈黙の中に、息を呑む音がした。
だが、それは一瞬で大きな高笑いに変わる。
「ふっ、はははははははははっ!!!!」
天にまで届きそうな笑い声が響き渡る。
地味崎と日頃呼ばれている彼の、そんなに大きな声は聞いたことがなかった。
またしても予想外の出来事に、呆気にとられたまま目の前の教師を見つめるしかない。
彼は、立ったままその長身を丸め、腹を抱えて愉快そうに笑っていた。
ひとしきり笑いこけ、呼吸が落ち着いてきた頃。
ゆっくりとその顔は上げられた。
右手の長い指先が、瓶底眼鏡を外してゆく。
そして、反対の手は、ボサボサの前髪をゆっくりと後ろへかき上げた。
今度は、此方が息を呑む番だった。
閉ざされた瞼の下は、長い睫毛が影を落とす。
すっと通った鼻筋に、凛々しく形の良い眉毛。
白い肌の中で、燃えるような唇だけが艶かしく弧を描いている。
全てのパーツが行儀良く並べられたその顔は、どこか中性的で人間離れする程に整っていた。
瞼が、ゆっくりと開かれる。
その向こうには、夜空を閉じ込めたかのような群青色の瞳が瞬いていた。
地味崎、と呼ばれていた教師はもういない。
目の前にいるのは、恐ろしく美しい得体の知れない男だった。
彼は、白衣のポケットに手を突っ込みながら、ステップを踏むかのように此方へと歩み寄る。
膝をついて、俺の鼻先に顔を寄せた。
「僕はね、神様なんだ。魂を喰らう保食神。だから、生きたままの君を喰うことはできないんだ」
まるで、それは内緒話でもするかのような密やかな声だった。あわい吐息が鼻を掠める。
その言葉に、俺は躊躇なくネクタイを緩めて首を差し出した。
「じゃあ、さっさと先程の続きをどうぞ」
「やだ、黒木くんったら男前!」
揶揄うように口笛を一吹きする相手に苛つく。
何か言ってやろうかと口を開こうとすると、その手は首に伸ばされた。
首筋を、冷たい指先がなぞる。
さっきまでいた化け物の血の方が、よっぽど温かかったなと、回らない頭で考えた。
しかし、先生は、突然立ち上がった。
「合格だ。気が変わった」
「はっ?」
群青色の澄んだ瞳が、俺を捉えた。
「君は、いい感じに狂ってるね。そんな君に、有難い神の信託を与えよう」
「は?」
「汝、その命を我に捧げんことを生涯誓うか」
「……は?」
仰々しく囁かれた言葉の意味を理解する前に「こら、返事」と小声で叱られる。
「汝、その命を我に捧げんことを生涯誓うか」
「はい? えっと、誓います」
「その言葉、ここに魂の契約として印す」
「しるす?」
そう聞き返した瞬間、瞳は澄んだ青から、全てを燃え尽くす業火のような深紅に染まった。
「……ぐ、ぁあっ!」
全ての意味を理解するよりも先に、指先で先程なぞられていた首筋に突如として歯が立てられた。
「っ、ゔぁああああああああっ!!!!!」
次の瞬間、全身の血が沸騰するかのような熱が身体中を駆け巡る。脳が痺れ、目の前に閃光が走り火花が散った。頬に触る先生の黒髪は、瞬く間に白銀へと色を変えてゆく。
歯は、容赦なく首筋へと食い込んだ。
それは、永遠のような耐え難い苦痛だった。
だが、不意に終わりは訪れた。呆気なく歯を離さたかと思うと、俺は立っていられずにその場に膝をついてへたり込んむ。長い舌が、唇の端についた俺の血をべろりと舐め上げ言った。
「契約完了だ」
遠くでは、間抜けなチャイムが響き渡った。
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