探偵、渋谷正道とダンゴムシの話

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野々宮は小さく息をついて書類を置いた。両手を突き上げて大きく伸びをした。 時間に余裕はない。が、敢えて休憩を取ることにした。どちらにしろ、渋谷の集中力は完全に切れていて、現実逃避まではじめている。気分転換が必要だった。 「舗装された道路から、花壇を目指しているダンゴムシがいてさ。けど、花壇までは段差があって、あの小さな身体で乗り越えようと頑張っていたけれど、どうも無理そうで」 「なるほど。してますね、立ち往生」 「だから手ですくって運んでやったんだよ。あの日もこんな空模様だったかな。……いや、晴れてたっけ」 もう覚えていないじゃないですか、と冷めたコーヒーを飲みながら思った。 「きっと元気にしてますよ。いずれ恩返しに来てくれるのでは?」 「かれこれ二十年近く前の話だけど」 「じゃあ死んでますね。ダンゴムシの寿命はだいたい三年ぐらいなので」 「恩返しは?」 「来ないですね」 渋谷は「あーあ」と落胆して、座っている黒皮のチェアーを一回転させた。 「疲れちゃったから帰っていい?」 「駄目です。そんなんじゃ、助けたダンゴムシに顔向け出来ませんよ」 すると渋谷はにやにやとした笑みを浮かべはじめた。 「そう言って丸く収めようとしてる? ダンゴムシだけに。ふふっ」 笑いの沸点も冗句のクオリティも気温のように低かった。絶不調だ。 野々宮は何も言わずに、テーブルの端から書類を一束取り上げて、それを渋谷の執務机にそっと置いた。 「渋谷さん、ちょっと気合入れ直してもらって」 「根性論は好きじゃない」 「シンプルにつまらなかったので」 「直球で言うじゃん」 渋谷はわざとらしく驚いた顔をして、そのあと声を出して笑った。 身体は机に向かっていて右手はペンを握っている。小さく鼻歌を歌いながら、手元の書類をめくりはじめた。                                  了
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