その花の咲くころに

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その花の咲くころに

 ページを捲ったとき、背後で気配がした。  扉が開いたことにまるで気がつかなかった。 「またここでしたか」  呆れの混じる声に俺は返事をしなかった。 「オリエンス・オルレインにそれほど執着する理由とは何ですかね?」  気配の主は俺の反応などまるで気にもしない様子で言葉を続けた。  それはいつものことだった。  あれから続く退屈な日常のひとつ。 「あなたほどの人が、たったひとりの人間に」  ぎい、と椅子を引く音がして気配はそこに座った。  去る気はなさそうだと、俺はゆっくりと振り向いた。 「だからなんだ」 「別に」  椅子に座ったまま肩を竦める。その仕草が鼻につくほど似合っていると感じるのは、こいつが元々嫌味ばかり言う皮肉屋なのを知っているからだ。今はお仕着せの執事の服などを着ているせいで余計に似合っていて始末が悪い。  幼い頃からよく知っている、俺の母の姉の息子、つまり従兄だった。老齢だった前の執事長が引退するとき、誰か代わりをとしつこく乞われ、仕方なくこいつを選んだ。 「それで何の用だ」 「特に用というわけでは」 「なら出て行ってくれ」 「まあ、これでもどうぞ」  従兄は──ヨアキルは、そばの読書机を示した。いつの間に置いたのか、銀の盆がそこにあった。皿がひとつ載っている。  綺麗な器に盛られた赤い果実が、北向きの薄暗い部屋の明かりに映える。 「さっきあの子が持って来ましてね、美味しいですよ」  あの子。 「あなたに会えないかと言ってましたが、どこにいるのか分からないので申し訳ないと言っておきました」 「…そうか」 「会いたかったですか?」 「いや」  手にした本を机に置き、器の中の赤い果実を摘まんだ。  瑞々しいそれは、きっと今朝採ったものなのだろう。 「あの子も随分大きくなりましたよ」  そうだろうな、と俺は思った。  あれから六年だ。  オリエンスが死んでから六年が過ぎた。  幼かったエマももう十を越えたはずだ。  長いとも短いともつかない時間。 俺はもうずっと彼女に会っていない。彼女はこうして俺を訪ねて来てくれるが、どんな顔をして会えばいいか分からなかった。  合わせる顔がない。  今でも、泣き叫んで彼の亡骸に縋りつき離れようとしなかったエマの幼い姿が目に焼き付いていた。 「結婚は? 今年もしないつもりですか?」 「それが用か」 「聞いただけだ」  怒るなと、ヨアキルはくすりと笑った。 「配下の者達が気を揉んでいるんだよ、主がこれでは」  主か。  あの一件の後、俺は父の後を継ぎ領主となった。  俺を貶めようとし、あげくオリエンスを殺した義理の弟はその罪で裁かれた。  そしてそれを幇助した義母は俺の手でこの地から追放した。今は故郷である北の地で暮らしているだろう。けれど彼らを排除したところで気持ちは少しも晴れなかった。  ただ虚しさだけが残る。  そして今でも後悔している。  なぜ城になど戻ってしまったのか。  あの日受け取った知らせをなぜ信じてしまったのだろうかと。  もう戻ってくるな。  オリエンスがそう言った雨の朝、夜も明けないうちに俺の元に来た知らせには、俺の無二の親友が死罪になると書かれていた。  手紙の文字は親友のものとよく似ていた。その無実を俺だけが証明できるとあった。判決は明日── 『シノ様、あの、どうか、どうかお助け下さい…っ』  それを持って来たのは親友の弟だった。 『わかった。だが少し待ってくれ、おまえは先に帰っていろ』  必ず行くと言って弟を先に行かせた。  顔を知っていただけに油断したのだ。家族を盾に脅されていたと知ったのは何もかもが終った後だった。  もちろん親友の死罪などはでっち上げだった。オリエンスに話を拒絶されとにかく早く片を付けようと急いで城に戻ったおれを待っていたのは、義弟の息のかかった配下の者達だった。  そのまま城の地下に軟禁され、…  婚礼の儀式の準備の最中、手薄になった監視の目を盗み逃げ出した。その手引きをしてくれたのは、他ならぬヨアキルと、捕らえられたと知らされていた親友だった。  ふたりの協力で俺はオリエンスの元に戻った。夜が明けるまえには遠くへ行くつもりだった──彼を連れて。  あの朝、俺がオリエンスよりもほんの少しでも早く起きていたら、何かが違っていただろうか。  今このときも、俺は彼の傍にいれたのだろうか。  オリエンスはまだ生きて、──  机の上に置いた本のページが窓から入った風でパラパラと捲れた。  そこに書いてある文字を掠めるように眺める。  ヨアキルがそんな俺の横顔を見つめ言った。 「それ何の本?」  本の表紙は見えていたはずだ。  輪廻を題材にした研究史、人の生まれ変わりについて。  何が大事かを記している。  俺がもう何度も、この本を繰り返し読んでいることをヨアキルは知っている。  もうどうしようもないことだ。無駄だと分かっていてもなお、意地の悪い従兄は俺に言わせたいのだ。  ゆっくりと俺は首を振った。 「おまえには関係ない」 「そう?」  手にしたままだった赤い果実を口に入れた。それは甘く、酸っぱく、いい香りがした。 「あの庭園にあったんだそうだ」  ああ、そうなのか。  焼け落ちた屋敷の後には、いつの間にか色とりどりの花が咲いている。 「エマが言っていたよ。先生が育てていたこの木は今年初めて実を付けたって」 「……」  先生、と今でもエマは彼のことをそう呼ぶ。実際オリエンスは植物学者だった。他国で生まれたが紛争を逃れ、縁のあったレクタールを頼ってあの場所に辿り着いた。 「もうすぐ彼の命日だ。行くんだろう、イグシノーアス」  父も母も亡くなった今、俺の正名を呼ぶのはヨアキルだけとなった。  イグシノーアス・アル・シュレンダー  それが本当の俺の名前だ。 「…ああ」  俺は頷いた。  風にカーテンが舞う。  どこからか香る花の匂い。  親も兄妹もいない彼の墓は、あの場所にある。彼が育てていた多くの花に埋もれるようにして。 「今年もきっと満開だろうな」 「ああ」  美しい小さな花の花びらが風に舞う様を思い出す。  毎年命日に合わせるようにしてあの庭園の花々は見事に咲き誇るのだ。  不思議なほど、美しく。  そして散っていく。  甘い果実をもうひとつ食べる。 「…美味いな」  その美味しさにふと笑んでいる自分に気がついた。  この実の名を知りたいと思った。 「なんて言うんだ、これは」  さあ、とヨアキルは言った。 「エマに聞いたらどうです?」  エマに。  目を向けるとヨアキルは肩を竦めた。 「それ、全部食べてくださいよ。僕がエマに怒られる」  そう言うと椅子から立ち上がり、ヨアキルは部屋を出て行った。  ゆっくりと噛み締める。  この実をつける木はどんな花を咲かせるのだろう。  その花を見たい。  オリエンスが愛したものをもっと。  もっと、こんなふうに。  同じように彼を愛した者と一緒に。  来年は、きっと。  風に捲れる本の傍らに立ったまま、俺はまたひとつ果実を食べた。
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