君を好きでよかった

3/9
前へ
/9ページ
次へ
 8月になった。全てのテストとレポートの提出が終わり、正々堂々、夏休みを手に入れた僕は、早々と帰省の準備を始めていた。同じ学部の友達は、もう少し大学があるこの街で夏を過ごすようだけど、僕は正直言って地元にいる方が好きだ。僕は大学に通うためにこの街に来るまでは、地元は田舎だと思い込んでいた。九州の北西部、海に囲まれ街じゅう坂ばかりの地元は、確かに大都会とは言えない。しかし、大学周辺は地元をはるかに上回るド田舎だった。建物の平均身長がまずめちゃくちゃに低い。見渡せば山。畑。田んぼ。大学から駅までが遠い。駅には何もない。星空と空気が綺麗なところだけは褒めてやる。でも、こんな場所じゃ、せっかくの夏が枯れてしまう。  明日の今頃には、僕はもう地元に帰っている。  今年の夏は、何しよう。誰と会おう。  頭の中に、白紙のやりたいことリストを広げた。  一人暮らしの部屋の中、窓の外からのまぶしい日差しと騒がしい蝉の鳴き声を背中に浴びながら、僕はキャリーケースにTシャツとズボンを詰め込み、上機嫌で鼻歌を歌っていた。  翌日。 「いててて……」  目を覚ましたバスの中、顔を歪めながら、小声で呟いた。朝一番の高速バスに乗って約2時間。途中で乗り換えてまた2時間。居眠りをしていたら、実家がある街に着くころには、僕の首は完全に石化していた。  バスを降りて、すっかり凝ってしまった首をぐるぐる回す。長旅だった。しかし、やっと到着したのだ。適度に背の高い建物が、道に居心地のいい影を作っている。大きな道路には市民の足、路面電車も走っている。商店街にもちゃんと人がいる。めちゃくちゃ都会ではないけど、なんだ、やはり地元は栄えてるじゃないか。星が見えない代わりに、こっちには夜景があるんだ。  僕はキャリーケースをひきながら、数か月ぶりの賑やかな街並みを見て、なんだか勝ち誇ったような気分になっていた。  バス停から、実家の方向へ歩き出す。その時。 「葉ちゃん!」  久々にその名前で呼ばれた。振り返ると、中学の頃からの友人である康太が手を振って駆け寄ってくるところだった。懐かしい人物の登場に、僕は首の痛みも一瞬で忘れてしまう。僕も手を振り返しながら口を開く。 「康太、ひさしぶりー!」 「ひさしぶり! 今帰ってきたの?」 「うん。ついさっきバスが到着したところ」  ナイスタイミング、と、康太は笑った。  康太は現在、地元の専門学校に通っている。彼も今は夏休みのようだ。偶々、僕の姿を見かけ、声をかけてくれたらしい。  僕たちは、久しぶりに二人並んで家までの道のりを歩いた。昔よく遊んだ公園や、大好きだったアイスクリーム屋さんが見えると、その都度話題が沸き上がる。約束もしていない、偶然会っただけだけど、僕の心は一気に中学の頃まで舞い戻っていた。会わない時間が続いても、顔を合わせればまるで昨日までずっとそうしていたかのように会話ができる。友達ってこういうものだとつくづく思う。 「そういえば」  もうそろそろお互いの家が近づいてきた所で、康太はふと思い出したように口を開いた。 「俺、昨日駅前で葵ちゃん見かけたよ」  葵。久々に聞くその名前に、心臓の裏側がドキリとした。 「そうなんだ」  平然としたテンションで言う。僕があからさまに視線を逸らしたからか、康太は少しにやりとして僕の顔を覗き込んだ。 「あれ? 興味ない感じ?」 「興味ないもなにも……。何年も前の話じゃん。ほとんど忘れてたよ」  ほお~、と、なおもニタニタしている康太の額に、僕は軽くチョップをきめた。康太は、大きな声で盛大に笑った。 「いやあ、でも、本当に久しぶりに姿を見たからさあ。俺もちょっとびっくりしたんだよ。葵ちゃんも、今のお前みたいに大荷物抱えてたし、きっとこっちに帰ってきたところだろうと思ったけど。どこの学校に行ってるとか、知ってる?」 「知らない」 「そっか。……もう、葵ちゃんとは、連絡とってないの?」  とってない。僕が頷くと、康太は、そうかあ、と腕組みをして斜め上を見上げた。  まだギリギリ12時手前、太陽はまだ一番高い場所には届かないけど、強い日差しがアスファルトの上の僕たちをじりじり攻撃する。蝉の声がじうじうと、乾いた風に乗って流れていった。 「じゃあねー」 「じゃあね! 今度遊ぼうな」  康太と別れて、ひとり、家族が待つ家への道を歩く。マンションの2階、数か月ぶりの実家の玄関の前に立つと、心がふわりと軽く浮いた気がした。  がちゃ。扉を開ける。 「ただいま」  父の革靴、母の靴、妹の運動靴。玄関に並べられたそれらと、家の奥から少し遅れて返ってきた「おかえり」の声に、僕はふーっと、長く息を吐いた。  夏休みが、帰ってきた。  久しぶりに入った自分の部屋はかなり埃っぽかった。おまけに、一人暮らしを始めるときにかなり処分したとはいえ、中学や高校の参考書、もう着ないであろう洋服類もまだ残っている。僕は、脳内にある「この夏のやりたいことリスト」の一番上に、「部屋の片付け」を追加し、さっそく作業を始めた。  ごうごうと、クーラーが低い唸り声をあげている。僕の部屋は日当たりが良いうえになんだか今日は冷房の調子が悪いらしく、掃除をしているとじんわり汗をかいた。あんまり暑いから、昔のアルバムや教科書のとりとめもない落書きを見かけるたびに、僕はいちいち手を止めて眺めてしまう。ちょっとした落書きを見るだけで、その時の授業の様子がふわりと蘇った。友達や、今はもうどうしているのかわからない誰かの声に遮られて、なかなか作業が進まない。  だめだ、一度、休憩しよう。  僕は、手に持っていた思い出を一度床に放置して、自分の部屋を後にした。  台所では、母が昼ご飯の準備をしていた。そうめんを茹でる何とも言えない湯気の匂いが立ち込める。 「帰ってくるなり部屋に引きこもって、何してたの」  ゆで上がった麺を水でしめながら、僕の姿を横目に見て、母はさっそく小言を言う。 「部屋の片付け」 「……そう」  はい、と、水を切ったそうめんが入った皿を渡される。ガラス容器の、ひんやりとした感触が僕の手のひらを優しく冷やした。 「ありがとう」 「茹でればまだあるから、たくさん食べて」 「うん」  リビングには、新聞を読んでいる父。妹は部活に行っているようだ。父と母と三人で食べたそうめんは、少しのびて柔らかかった。  午後。  お腹が満たされた僕は、再び自分の部屋で片付けを開始した。教科書やノートはひもで縛ってまとめて、このプリントはゴミ袋へ、このペンももうインクが出ないから捨てる……。順調なスピードで片付いていった。今の自分にとって必要なものと要らないものの区別が、きちんとつけられるようになっていた。  机周りがかなり片付いた。本棚の中も、もう教科書やノートはほとんど残っておらず、好きな漫画や雑誌ばかりが並んでいる。  ふと、本棚の一番下の段の端っこに、漫画の陰に隠れるようにひっそりと置かれていた、一冊のノートを発見した。  昔の授業用ノートだろうか。  しゃがんでそっと手に取ってみる。無地の茶色い表紙には、自分の名前も教科も書かれていない。僕は首を傾げながら、静かに表紙をめくった。 「あ……」  中の文字を見て、トスン、と、心臓に衝撃を受けた。  僕の書く乱雑な文字とは違う。繊細で、柔らかい筆跡。 「これ……葵の小説だ……」    薄くぼやけた鉛筆の文字の中に、彼女の声が聞こえた気がした。これは葵が書いた小説だ。  蓋をしていた記憶にぼんやり、灯りがともってゆく。  僕は、彼女が綴った文字を指先でなぞった。  僕と葵は、中学一年生の時に出会った。同じクラスで、同じ図書委員。  初めはお互いそっけなかった。でも、放課後、一緒に図書室で本の貸し出しの当番をした後、なんとなく一緒に帰るようになっていた。葵は、教室でも図書委員の仕事の合間にも、いつもノートに何かを書いていた。 「ねえ、いつもノートに何を書いてるの?」  ある日の放課後、図書室で本棚の整理をしながら僕は聞いてみた。葵は、少し顔を赤らめて、「小説……」と教えてくれた。 「読んでみたい!」  少しの間も置かず、一生懸命にそう言ったのを覚えている。僕は、あまり小説を読まない。図書委員だって、本好きだから、ではなく、仕事が楽そうだからなっただけだ。でも、葵の書く物語なら、読んでみたいと思った。少しでも葵の心の中を覗けるんじゃないかと思った。  それから、葵は小説を一本書き終えるたびに、僕に見せてくれるようになった。交換日記ならぬ、交換小説。交換、と言っても、僕は物語を書けないから、葵の書いた世界を僕が一方的に追いかけるだけだったけど。  葵はいろんな話を書いた。ファンタジー、ミステリー、恋愛物語。ギャグみたいな話も、涙が零れるような話も、いろいろ。僕は夢中で読んだ。葵が紡ぐ言葉一つ一つが好きだった。  そして、新しい物語を書いた後、僕にノートを渡してくれる時の照れたような微笑みも、好きだった。  今思えば、あれは恋だった。  自分の気持ちに気付くのが遅かった。いや、幼かった僕には自分の気持ちを認める勇気がなかったのだ。あれほどたくさんの言葉を彼女は僕にくれたのに、僕は何も言えぬまま。卒業してしまった。お互い別の高校に進学してからは、連絡を取ることもなくなった。  僕は、もう一度、手に持っていたノートに視線を落とす。きっと、葵に返し忘れていたのだろう。ゆっくりページをめくれば、彼女の姿が鮮明に蘇る。小さな唇と、長い睫毛と、セミロングの少し茶色がかった髪。懐かしさと、ほんの少しの寂寥感が僕の内側を包んだ。  読んで、みようかな。もう一度。  僕は、あの頃と同じように、丁寧にその物語を辿っていった。じんわり少しづつ、彼女の言葉が僕を満たしてゆく。その感覚が懐かしくて、自然と口元が緩んでいた。ところが。  数ページ読み進めたとき、物語の中に、強烈な違和感を引き起こす “ある言葉” を、見つけてしまった。 「え……? この言葉って……」  はっと息を止めて、僕は “その言葉” をしばらく見つめる。  それは、主人公の少女がアイスクリームを食べるシーン。  “家に帰ってお風呂に入って、髪を乾かした後、私は冷蔵庫を開ける。バニラアイスが一つ、黙ってそこに眠っていた。冷蔵庫の中から、ひんやりした冷たい空気が頬に触れる。火照った体にはちょうどいい。妖精の体温ってきっとこんな感じかもしれない。 「……んふふ」  自然と、微笑んでいた。  私はアイスクリームが大好き。特にバニラアイス。卵とミルクの優しい味が口に広がると、君のことを思い出せるから。……”  何でもない場面のはずだった。でも。  “妖精の体温ってきっとこんな感じかもしれない”  彼女独特の比喩表現。だけど、僕は最近この表現を見た。  咄嗟にポケットからスマホを取り出して、検索画面を表示した。 『泣きつかれて死ねたらいいのに。』  特徴的なブログタイトルに、内臓の奥深くがざわめいた。指先でその文字をタップする。  2019年6月24日の投稿。  “夏の気配が近づいた室内の空気は、なんだかじっとりむかむかする。冷蔵庫を開けるとひんやりした空気が頬に触れた。涼しい。妖精の体温ってきっとこんな感じかもしれない、なんてメルヘンなことを思ったり。……” 「あ……!」  これだ、この言葉だ。自殺希望の女の子が、葵の言葉を使っている。  心臓の鼓動が、警報のように高鳴っていた。  僕は、ばくばくと鳴り響く心音に急かされるまま、ブログの文章を次々に読み漁った。まだ読んでいなかった投稿も、20ほど遡って読んだ。  たった一つ、表現が同じだっただけじゃないか。そう思って無視しようとした。でも、読めば読むほど、心の中の警報音は脳みそを揺らすほど煩く鳴り響いた。このブログを初めて見たときに感じた、石ころ程度の違和感が、どんどん形を持ってはっきりしていく。このブログの文章は、葵の書く小説の文と似ていた。  落ち着け。落ち着け! 偶然だ。名前だって違う。そうだ、葵の誕生日はいつだっけ。哀田詩央の誕生日は12月28日とあった。葵の誕生日も……12月の……。 「28日だ……」  思わず口に出していた。背中からぞわっと寒気がした。  葵の誕生日も、12月28日だった。クリスマスと大晦日のちょうど真ん中だと、いつか葵が言っていた。  僕はぱたっと、画面をスクロールするのをやめた。画面に表示される言葉全てが、彼女の後ろ姿を指さしているようだった。  スマホを床に放り投げる。ごん、と鈍い音がする。 「葵……」  いつの間にか呼んだ名前は、セミの鳴き声が攫って行った。  ようやく効き始めた冷房の音が、ゴーゴーと頭上に降りかかる。体は冷えているのに、汗が流れて止まらない。  僕は、さっき放り投げてしまったスマホを、もう一度右手でしっかりと握りなおした。震える指で数字をタップする。連絡を取らなくなって数年経っているけど、指先が彼女の電話番号を記憶していた。  プルルルル……。  呼び出し音だけが高く鳴り響く。心臓の鼓動がより一層早くなる。  彼女は電話に出なかった。  スマホを耳元から離すと、ごろりとその場に倒れ込んだ。仰向けになって天井を見つめる。真っ白な天井が迫ってくる感覚に襲われて、目を閉じた。  僕は、一体どうしたいのだろう。彼女が電話に出ないことに焦る半面、どこかで安堵もしていた。あの頃、様々な判断を先延ばしにして怠ってきた僕には、今、彼女と電話をする程の権利がないと、知っていたから。  でも、きっと死んでない。康太が昨日彼女の姿を見かけたって言ってたじゃないか。それに、ブログの著者が葵だって、確実に決まったわけではないんだ。誕生日が一緒くらい、よくあることじゃないか。世界中で、毎日数えきれないほど人間は生まれてる。……  いろいろ考えて落ち着こうとした。  でも、胸のざわめきは一向に消えなかった。 #146 2019年8月4日  ここ数日、テストやレポートに追われていた。死にたい気持ちが友達にばれないように、大学の勉強は頑張る。友達の前では、あくまで普通の大学生。勿論、友達のことは大好き。私みたいな欠陥品にも話しかけてくれるみんなに感謝してる。だからこそ、私は普通にしてなきゃいけない。  昨日、地元に帰った。久しぶりに会ったおばあちゃん。最近電話で「腰が痛い」って言ってたから心配してたけど、元気そうだった。 「ただいま」  おじいちゃんの仏壇に手を合わせる。 「おじいちゃん、よろこんでるみたいだねえ」  くるくる丸くなってなかなか落ちないお供えの線香の灰を見て、おばあちゃんがそう言った。  夜になって、ママが仕事から帰ってきた。スーツをきっちり着たママは相変わらずかっこよくて綺麗だった。ママが私のママでよかったと、心から思う。お酒をたくさん飲むところは心配だけど。その夜は、久しぶりにママの隣に布団を敷いて寝た。  私が死んだら、きっとこのブログはママもおばあちゃんも見ると思う。2人にはやっぱり申し訳ない。こんな娘でごめんなさい。正しく生きることができなくて。  夜、寝る前にブログを確認したら、新しい投稿が二週間とちょっとぶりに更新されていた。このブログが葵のだとは認めたくないけど、とりあえず画面の向こうの人物がまだ生きていることに安心した。でも、「昨日、地元に帰った。」というのが、とても気になった。康太は昨日駅前で葵を見たと言った。偶然だと思いたいのに、タイミングが気持ち悪くて仕方がない。  一体、哀田詩央の言う「正しく生きる」ってなんだろう。死にたい気持ちを抱えてたら人間として認められないのだろうか。欠陥品なのだろうか。僕だってこれまで、どうしても生きていけないような、明日が見えないような日があったけど、それでも、なんとか足を引きずるようにして前を向いてきた。誰だって、たぶん1人1人毎日何かに違和感を抱えながら生きてる。  ああ、でも、そうか。悲しいとか苦しいって、比べられるものじゃないんだ。苦しい時に「あなたも辛いだろうけど、でもみんなも辛いのよ」は何の慰めにもならない。  でも、じゃあどうすればいいのだろう。  もし、このブログの書き手が目の前にいたとして、僕はどんな言葉をかける?  暗い部屋の中で冷たく光るスマホの画面が、僕の両目を刺激する。 「はあ……」  ため息をついて、スマホをぽすっと布団の上に放り投げた。目を閉じると、とろとろと眠気が手招いてくる。僕の思考は闇の中に連れ去られた。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

8人が本棚に入れています
本棚に追加