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それから毎日、僕はブログを確認した。しかし、一週間経っても更新されなかった。
もともとこのブログは、何日に一回更新するとか、何曜日に投稿するとかの決まりがないらしい。だから、一週間くらい間が空いても、たぶん大丈夫だ。それに、きっと死ぬならその直前に何かメッセージを残すはずだ。「今から死にます」とか。
僕は、8月4日で止まったままの日付を見るたびに、そうやって理由をつけて納得しようとした。
ただ同じ日に生まれて、文章の書き方が似ているだけ。だけど、気が付けば葵のことを考えている。葵は哀田詩央ではないと信じながら、やっぱりどうしてもモヤモヤが残った。過去の投稿を遡ってみれば何か手掛かりがあるかもしれないと、いくつか読んでみたけど、特にこれといった情報はなく。哀田詩央が死にたい原因もはっきり記載されていなかった。
それなのに、読めば読むほど言葉の端々に葵の影を感じる。嫌になるので過去の投稿を読むのを止めた。そしてやはり、もう一度葵に電話をかけてみる勇気も、僕は持ち合わせていなかった。
そんな悶々とした日々を過ごしているとき。
パァン!
夕方、赤く熟れた太陽が町中を染める頃、窓の外で爆竹が弾ける音がした。
蝉も驚いて黙ってしまうほどの騒音。僕は思わずベランダに出る。見下ろすと、大きな精霊船が、ゆっくりゆっくり道を進んでいた。
そうか、もう、お盆になってしまったのか。あのブログを気にするあまり、ずっと気持ちが落ち着かず上の空だったから、気付かなかった。
地元のお盆は騒がしい。豪華な精霊船と人ごみと、鳴り響く爆竹の音。一瞬お祭りかと錯覚しそうになるが、死者の魂を送り出すための、れっきとしたお盆の行事だ。県外に出るまではこの騒がしさが普通だと思っていたが、大学の友達の話によると「お盆は静かなもの」らしい。
「わあ、見て! あの船、すごく大きい」
洗濯物を取り込もうとベランダに出てきた母が指さした。まだ少し遠くにいるその船は、数十人ほどの法被を着た人々を引き連れて、悠々と道のど真ん中を進んでいる。飾りつけも煌びやかで、沢山の提灯にはくっきりと家紋が浮かび上がり、船が動くたびに色とりどりの千羽鶴や造花が揺れていた。
「かなり気合が入ってるね……。あ、ほら、あっちの船は車の形してる。車好きな人だったのかな」
時間の経過とともに、人通りも船の数も多くなる。船は、大きさも、形も様々だ。中には故人の趣味を反映させた個性的な飾りつけのものもある。初盆を迎えた遺族は、思い思いの船を造り、故人の霊を乗せて「流し場」という終着点まで運ぶ。初盆でない家の人々も、お供え物を藁包みした「こも」と呼ばれるものを抱えて、指定の場所へ持っていく。
まるでパレードだった。とある歌手は、歌詞の中で精霊流しを「華やか」と表現している。悲しんでばかりではいけない。明るく派手に華やかに、送り出してやろうじゃないか。きっと、そんな想いが船たちに込められているのだろうなあと、僕は勝手に思う。
行きかう船を見てひとしきり騒いだ母は、洗濯物を取り終え部屋に戻って行った。僕もそろそろ戻ろうとしたとき、ふと、視界の隅に一人の少女が映った。
爆竹の火花と提灯で彩られていく暮れの街の中、その人は、まるで影だった。
真っ黒なワンピースを身にまとい、じっと息を殺すような姿。左の腕にこもを大事そうに包んで、一人で俯き静かに歩く。僅かに残った夕日に染められ、セピア色になった髪が、肩のあたりで風を含んで揺れていた。
カメラのピントが合うように、僕の両目が彼女に吸い寄せられていった、その時。
ふわりと、一瞬だけ強まった風が、彼女の髪を乱した。さらさら散らばった髪を、そっと、右手で耳にかける仕草。その横顔に、僕は、目を見開いた。
「葵だ……!」
震える声で思わず叫んでいた。あれは確かに葵だった。
バタバタと、ベランダから室内に戻る。そのまま玄関へ行き、スニーカーを足にひっかけるようにして外に飛び出した。マンションの階段を滑るように駆け降りる。何も考える余裕はない。体が勝手に動いていた。
大丈夫、まだ遠くへは行っていないはずだ。
人をかき分けるようにして駆けた。夏の蒸された空気を頬に浴びて、首筋に汗が伝う。
どれくらい探しただろうか。人ごみの中、かき消されそうな真っ黒なワンピースの後ろ姿を発見した。地面が透けて見えそうな、白い肌めがけて手を伸ばす。
5メートル、3メートル、1メートル、あともう少し……!
心臓が、身体の内側で破裂しそうなほど脈打っている。
「……葵」
彼女の名前とともに、その細い右手首を、僕の左の手のひらが引き寄せた。
「葉一、くん……?」
振り返って目を大きく見開いた彼女が、僕の名を呟く。
パラパラパラ……。爆竹の音が遠くで鳴り響いた。硝煙で霞む視界と、その隙間にゆらゆら灯る光。交通規制の警察官の間をすり抜け、大通りのコンクリートの中を泳ぐ精霊船たち。
360度、異世界の街の中で、やっと、追いついた。
張りつめていた緊張の糸が風に溶けてゆく。僕は大きく息を吐いた。
しかし、その瞬間、安堵するとともに、僕の頭の中に彼女にかける言葉が何も用意されていないことに気付いてしまう。
「げ……元気にしてましたか!?」
勢いよく叫んだ次の言葉は、たどたどしくて何とも間抜けで。でも、
「うん……。たぶん、元気……」
少し視線を逸らしながら、彼女はちゃんと答えてくれたのだった。
葵は、おじいさんへのお供え物を包んだこもを置き場まで持って行くところだった。
「本当はお母さんとおばあちゃんも来る予定だったんだけど、おばあちゃん、今朝からずっと腰が痛いって寝込んでて。お母さんもおばあちゃんの傍についてないといけないから、私だけになっちゃった」
一緒に並んで歩きながら、彼女は少し寂しそうに笑った。
またしても、あのブログの内容が僕の頭に過ってしまう。爆竹のけたたましい高音が鳴り響く中、僕は、彼女の発する一言一言に注意深く耳を傾けた。
その時、目の前を、1メートルにも満たない小さな精霊船を抱えた、若い夫婦が歩いて行った。船には可愛らしいぬいぐるみやおもちゃが沢山載せてある。
心の奥が、きゅっとなった。華やかな景色の中、ここにいる人々はみな、大切な誰かとの過去を抱えて歩いている。
「おじいちゃんの初盆の時も、あれくらいの大きさの船だったなあ」
ぽつりと、葵が目の前の船を見つめながら言った。
「薄いピンク色の小さな提灯がたくさんついた船だった……。そしたら、船を持って外に出ようとしたとき、提灯がころころ転がって落ちちゃって。元の位置に戻しても戻しても落ちるから、お母さんちょっと困ってたなあ」
葵は、懐かしそうに目を細めた。
「おじいさん、まだ帰りたくなかったんだよ、きっと」
僕がそう言うと、葵は少し驚いた顔をして、ふふっと小さく笑った。
暫く歩くと、「こも置き場」と大きく書かれた立て看板が目に入った。広い公園の片隅に、たくさんのこもが並べて置かれている。こうして集められた藁の包みたちを見ていると、やはり独特な行事だなあと思う。
「じゃあ、行ってくるね」
そう言うと葵は、こも置き場の人だかりの中に入っていった。僕は立ち止まって、その後ろ姿を眺める。しゃがんでそっとこもを置いた後、線香を炊いてお参りする葵。暫くその場で手を合わせ、まるで、じっと、祈っているようだった。その姿を見ていると、僕の頭は次第に冷静になってゆく。
そういえば、おじいさんを見送るのに僕なんかが付いてきてよかったのだろうか……? それに、いくら必死だったとはいえ、久しぶりに会った女の子の腕をつかんでしまったのも、なんだかまずいような気がする。
急に色々心配になった。でも、それでも。今の自分を認めるとするならば。
家のベランダから葵の姿を見たとき、「行かなきゃ」と強く思ったのだ。
雷に打たれたような、まるでもう今を逃したら彼女に会えなくなるような。そんな衝撃と危機感だった。
「おまたせ」
数分後、黒いスカートをゆらめかせ、戻ってきた葵は僕の顔を見て微笑んだ。
一瞬、どきっとしてしまう。
「……じゃあ、帰ろうか」
僕はふいと視線を逸らすと、彼女より少し先に歩き出した。
もうすっかり空は暗くなっている。街の灯りが、並んで歩く僕たちの影をぼんやりと地面に映し出した。
なんだか気まずくなって、ぽつりぽつりと会話が途切れる。中学生の頃は身長差があまりなかったのに、今は20センチほど差があった。だから、葵は時折、僕の表情を窺うようにこちらを見上げる。
でも、違いはそれだけだった。
声も、表情も、君と僕ごと包む空気も、全部、変わらなかった。
昔、制服を着て一緒に帰った道。徐々に残りが短くなってゆく。目の前に、緩やかな坂道が見えてきて、すっと懐かしい寂しさが心に流れ込んだ。
この坂を上って、右に曲がって5分ほど進めば僕の家。左に進んでまた角を曲がって、まっすぐ行けば彼女の家だ。あの頃僕は、いつも手を振って別れた後、彼女が向こうの角を曲がるまで見送っていた。
今日は、僕も一緒に左の道ヘ進む。
「あのさ、……」
彼女の家が見えてきて、思い出して恐る恐る聞いてみた。
「この前、電話したんだけど、気付かなかった……?」
葵はきょとんとした顔をしていた。急いでスカートのポケットからスマホを取り出す。
「電話……。本当だ、かかってる」
着信履歴を見て、彼女はようやく気が付いたようだ。
「ごめん、この日、一日出かけてて。気付かなかった」
素直に謝る顔を見て、ほっとした。しかし、
「どうして電話くれたの?」
率直な質問に、僕は言葉に詰まった。思わずその場に立ち止まってしまう。葵も足を止めると、首を傾げながら僕の方を向き直った。
君が死んでしまうと思ったから、なんて、口が裂けても言えない。
「葵に……会いたくなったから」
必死で言葉を振り絞った。今はこれしか言えなかった。
僕が、こんなこと言っていいのだろうか。会いたくなった、ただそれだけの理由を、彼女は僕に認めてくれるのだろうか。
葵は、目を大きく見開いて僕のことを見ていた。
僕たちの間に、凍ってしまったかのような静寂が訪れる。その時。
「私も、あなたに会いたかった」
静かな唇の動きが、僕の心にそっと触れた。ゆっくりと融けてゆくように、どこか寂しそうに、柔らかく微笑む君。優しくて、綺麗で、儚げで。
その言葉と、表情だけで、僕は思い知ってしまった。
ああ、まだ僕は、彼女のことを好きだ。
でも。
「……じゃあね」
次の瞬間、葵は、僕が返事を返す前に背を向けた。街灯がぼんやり照らす暗闇の中に、彼女は消えてゆく。
僕はまた、この後ろ姿を見送るだけなのか。
「待って……!」
咄嗟に出た言葉。彼女が振り返った。水で濡れたガラス玉みたいな、綺麗な瞳と目が合う。僕は一つ、深呼吸をして、口を開いた。
「また明日、僕と、会ってくれませんか……?」
もう僕たちは、理由も疑いもなく「また明日」が言える関係ではない。教室という箱に閉じ込められていた頃に保障されていた君との時間は、もう約束することでしか掴めない。
「……うん、いいよ」
何かを考えるように黙っていた彼女が、やがて、小さな声でそう言った。
心臓が、トクン、と、ピアノの音のように高鳴った。
僕と葵の明日は、約束された。
「どこ行ってたのよ」
家に帰って最初に僕を待っていたのは、母の小言だった。
「なんも言わずに急にいなくなってるし。電話にも出ないし」
電話かかってたのか。爆竹の音で着信音に全く気が付かなかった。
「すみません……」
「もう夜ご飯できてるよ」
ぷいっとそっぽを向く母。もう一度謝ろうとすると、茶碗を渡され「早く自分でよそって食え」と再び怒られた。
肉じゃがと、茄子が入ったみそ汁と、白いご飯。僕の好きなメニューだった。
ご飯を食べて、罪滅ぼしに食器や鍋を洗って片付け、部屋に戻った。
『泣きつかれて死ねたらいいのに。』ポケットからスマホを取り出して、もう何度も見たそのブログを開く。
「あ、新しいの出てる」
指先でそっとタップした。
#147
2019年8月15日
お盆。大切な人を二人、見送ってきた。空に昇ってゆく線香の煙を眺めてると、あなたがそこから私を見ているんじゃないかって、思う。
何度も、何度も、ごめんと思う。生きてるうちに伝えられなかった言葉たちも、煙みたいにゆらゆら空気を伝って、あなたの元まで届けばいいのに。
久しぶりの投稿は、それだけだった。
“大切な人を二人、見送ってきた。”
僕は首を傾げる。葵が今日送ったのは、おじいさん一人のはずだ。
ふっと心が軽くなった。哀田詩央は、葵じゃない。そう思えるような一文に、やっと出会えた。
スマホの画面を見るのをやめて、ふーっと大きく息を吐いた。
机の上に置きっぱなしだった葵の小説ノートが目に入る。文章の書き方は確かに似てたけど、偶然だったんだ。誕生日も。
葵の小説ノートをそっと手に取る。パラパラとめくると懐かしい文字が沢山、思い出とともに指先から心に流れ込んでくる。
明日、このノートも持って行こう。
僕はまだ交わしていない明日の彼女との会話を、空想して自然と微笑んでいた。
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