君を好きでよかった

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 僕は、スマホ画面から顔をあげた。  “綺麗にしたかったの。色々捨てなきゃ、綺麗にならない”  そう言っていた、葵の顔を思い出す。  葵が捨てたかったのは、小説じゃなくて、僕との過去だった。僕らは似ていた。お互い、心に想い合っていたのに、気付けなかった。動けなかった。中途半端なまま、彼女の心にもわだかまりが残っていた。  遅すぎたのか。  胸の奥がギュッと痛む。  僕が、あの頃、ちゃんと葵を。  僕は、ぐっと歯を食いしばると、スマホにもう一度検索画面を表示させた。  3年前、市内および近隣の市で発生した水難事故を検索する。様々なニュース記事が表示され、それらを片っ端から調べていると、一つ、気になるものを発見した。  18歳の男子高校生、海水浴中に死亡――  きっとこれだ。そしてこの海水浴場なら、電車で一時間程度で着く、という条件にも当てはまる。  行こう。間違っている可能性もあるけど。でもこのまま、ここにいることは、できない。  僕は家を飛び出した。外に出ると、風が強くて、空は今にも泣きだしそうな、水気を含んだ灰色だった。これではきっと、波も穏やかでない。  僕は、モノクロの街の中を駆けだした。  さっきの電話越しに、かすかに車が通る音と路面電車の音が聞こえた。葵は今、街のどのあたりにいるのだろうか。路面電車に乗って駅に行く前、もしくは、もう駅についてしまったか。それともすでに、駅から海へ向けて電車に乗ってしまったか。  わからない。でも、間に合わなければいけない。 「はっ……はっ……」  荒くなる呼吸を整えずに、前へ前へと足を出す。  背中から、首から、頬から、汗が流れていく。肺が焼け切るように痛かった。  路面電車が通る大通りへ出た。電停に着くと、ちょうど、停車していた一両の小さな車体に乗り込む。ごとごとと、重たい音を出して、路面電車が走り出した。  早く、早く……!  肩で息をしながら、窓の外を見つめる。路面電車がいつになくゆっくりに感じた。  走るよりは断然早い。しかし、落ち着けない僕の心臓は、他の乗客に聞こえてしまいそうなほど、激しい音で鳴いていた。  ようやく、路面電車は駅前に到着した。降車して、信号を渡って、駅へ急ぐ。目的地までの切符を買って、ホームへ向かった。ホームにはそこそこの人がいた。でも、葵の姿はなかった。  茶色い線路の上を、青い車体のシーサイドライナーが滑り込んでくる。キーっという甲高い音を立てて、車両は停車した。  プシュー……、と列車の扉が開く。転がるように、駆け込んだ。  つり革と座席が等間隔に並ぶ、青白い雰囲気の車内。ドアに近い空いている席に腰を下ろすと、機械的な車内アナウンスと冷房の風が、頭上から降り注いだ。 「お待たせいたしました。……、閉まるドアに、ご注意ください」  車掌の独特な声が響き渡った後、ついに列車は走り出した。  がたんごとん、と、優しく揺れる車内。窓の外、流れては消える静かな街の景色を、僕は黙って目で追った。  早くなっていた心拍数が、ほんの少し、落ち着いていく。僕はぼんやり、数年ぶりに葵と再会した、精霊流しの日を思い出す。  今にも消えそうに、黒い影のように歩いていた葵。こもを置き場に持って行って、暫く、その場にたたずんで祈っていた姿。あの時、きっと葵は、おじいさんの他に、亡くなった恋人のことも想っていたんだ。誰にも言わず、誰にも悟られないように、心の中で、一人で追悼していた。“大切な人を二人、見送ってきた”という言葉の意味が、ようやく、理解できた。  あの時、葵はどんな思いで僕の隣を歩いていたのだろう。僕はただ無我夢中で葵の元へ走ったけど、僕の行動は、葵の肩に悲しみを上乗せしてしまっただけではないだろうか。  ごとんごとん……。  電車の揺れが、僕の心も揺さぶっているようだった。外を見れば、見慣れない街の風景が、次から次に、後ろへと置き去りになってゆく。  間に合うのだろうか。そして、僕の判断は正しいのだろうか。  僕は今まで、様々なものを逃してきた。いつも間に合わない人間だった。葵のことも、あんなに好きだったのに、ずっとごまかして考えないようにしていた。  高校入学直前のあの日、せっかく葵がノートを渡してくれたのに、その後僕は返しに行くことができなかった。今思えば、葵が書きかけの状態の小説を僕に見せたことはなかった。葵は多分、自分の小説を通じてあの曖昧で緩やかな関係を、続けたかったのかもしれない。差し伸べられていた手を、無視してしまったのは僕だ。  僕は、間に合っていいのだろうか。  間に合ったところで、僕に止められるのだろうか。  そんな権利が、僕にはあるのだろうか。人一人の人生を、変えられるほどの権利が。  頭の中を、ぐるぐる、感情が溢れてゆく。ひざの上で両手を握りしめて、ギュッと目を閉じた。零れ落ちそうな感情を、押し留めようと必死だった。電車の静かな振動だけが、体中を伝わった。  でももう、列車は走り出している。  僕はただ、葵を好きで、それだけしかない。  好きな人に生きていてほしいと思うことに、権利なんていらないんじゃないか。  そう、思いたい。  列車は徐々に、僕を目的地へ近付けていた。四角い窓の向こう、灰色の空の下に、群青の波が現れる。  車内アナウンスが、僕の終点を告げた。  駅のホームに出ると、灰色の湿った空気の中に、ほんのり潮の匂いがした。この駅で降りる人は僕以外にはいなかった。小さな駅舎の中を抜けて走る。心臓が、再び大きく鼓動し始めていた。  駅から海まではほんの目と鼻の先だった。砂浜へ下る階段には、『遊泳禁止』の看板が立っていた。3年前の水難事故をきっかけに、利用客がめっきり減ってしまったこの海は、今年から閉じられてしまったらしい。近くには駅と数軒の家があるだけで、人の姿はなかった。  『遊泳禁止』の文字を通り抜けて、階段を駆け降りてゆく。  砂の上に足を踏み入れると、じゃりっ、と鈍い音がした。  スニーカーが砂に埋もれてゆく感覚がして、捕らわれる前に次の一歩を踏み出す。  真っ白な砂浜と、薄昏い海。目の当たりにした海は群青なんかじゃなくて、黒だった。底の無いような荒い水面が、僕の心を焦らせる。  葵の名前を呼びながら、浜辺を走った。強い風が彼女の名前を攫ってゆく。叫べど叫べど、返事はない。僕は間に合わなかったのだろうか。それとも、ここではなかったのか。  絶望と恐怖で心臓が凍てついてゆく。その時、一瞬、僕の目に何かが映った。  黒い海の中に、たたずむ黒い人影。もう上半身しか見えない。目を離したら、一瞬で波にのまれてしまうような、その影を見つけて僕は息をのんだ。 「ああ……!」  喉の奥から、叫びのような声が漏れる。  よろけそうになる足を無理やり立たせて、無我夢中で海へ駆けた。  ばしゃん、ばしゃん、と、水中へ踏み入る。濡れて重たい服と体にまとわりつく波に抵抗されながら、必死で進んだ。 「葵!」  僕の声に、その影は振り返った。  灰色の空の下、波にのまれそうな葵の表情が、怯えるように引きつってゆく。荒い呼吸音の後に、「いやだ」と、小さな拒絶が聞こえてきた。  逃げるように、さらに深く海へ入ってゆく彼女の肩を、力を込めて抱き寄せた。震えるほど、彼女の肩は冷えている。僕は葵の身体を後ろから抱き締めたまま、水際へと連れ戻した。葵の濡れた髪の毛が、僕の肩に絡む。彼女は、僕の腕の中で無抵抗だった。  ――と、静かだった彼女が、急に僕の身体を突き飛ばした。  腰から砂の上に倒れ込む。顔を上げると、まだ足首が水の中に浸かったままの葵が、僕を見下ろして泣いていた。 「なんで……、なんで今になって……!」  彼女はその先を叫ばなかった。ズキズキと、内臓が疼く。 「忘れさせてよ……。死なせてよ……」  消え入るような声で、懇願するその姿は、どんな悲劇より悲惨で。べったりと、濡れた真っ黒なワンピースが、彼女の白い体に張り付いていた。 「葵……」  僕は立ち上がった。まっすぐ、葵に向き直る。葵は一歩後退りした。 「一緒に帰ろう」  涙で揺れる葵の瞳を見つめる。葵は目を伏せた。 「帰ろう。夏休み、まだたくさん残ってるよ。美味しいパフェのお店も、他にも沢山あるよ。夏が終わったら、秋が来て……、せっかく、僕ら同じ大学だってわかったんだし、大学周辺ほんと田舎で何もないけど、でも、紅葉が綺麗だよ。赤と黄色の葉っぱが、街じゅう彩ってる。冬になったら、空気がとても澄んでて、星がよく見えるし。お正月は一緒に神社に行こうよ。それで、寒い冬を超えたら、今度は春で……。桜が綺麗な公園、僕知ってるよ。ちょっと遠いけど。春休みに、見に行こう。バスに乗って。それから、……」  ただぽろぽろ、溢れ出るままに喋っていた。葵みたいに、わかりやすくて綺麗な言葉を使えない僕は、思いついた言葉を慎重に紡いでいくしかなかった。頭が真っ白になりそうになりながら、僕は次の言葉を探す。  どきどき、胸が高鳴っていた。深呼吸をして、また、口を開いた。 「……それから。僕と、一緒に生きて」  僕の声は震えていた。俯いていた葵が、はっと顔を上げた。 「手放そうと思ってるならさ、葵の命、僕がもらうよ。そのかわり、葵に僕の命をあげる。全部……、残り全部、使っていいから。もらって、ください」  途切れ途切れになりながら、伝えた。今にも泣きだしそうな空が、僕たちの間にまた一つ、風を起こす。葵の両目から、大粒の涙が、ぼろぼろ、とめどなく流れている。 「……私、葉一くんの命をもらえるような人間じゃない」  やがて、葵はつぶやいた。 「私、悪い人だから。……ここに、来たってことは、知ってるんだよね。私が、どんなに酷い、醜い人間か。私は、私を愛してくれた人を、殺してるの」  そう続けると、葵は僕の目を見て、無理やり笑った。泣きたくなるような笑顔だった。 「私、中学生の頃、あなたのことを好きだった。でも、もう、遅いから」  涙を流した、歪な笑顔のまま、葵は言葉を放った。  身が引き千切れそうに痛かった。目の前の葵の言葉は、僕の心臓を突き刺していた。葵のせいじゃない。僕が、遅かったんだ。僕だって、君が好きだった。  痛みから、また目を逸らしてしまう。葵の顔を見れなくなる。  でも、それではだめだ。今ここで、向き合わなければ。 「葵が悪い人なら、僕だってそうだ」  僕はもう一度、顔を上げた。真っ黒な葵の瞳が、僕を映していた。 「僕も、君のことが好きだった。葵の過去を知って、今の言葉を聞いても、嫌いになれない。葵は僕に色々な物語をくれたのに、僕は何も返せなかった。好きだって、たった一言口に出すのが怖かった。逃げてごめん。遅くなってごめん。僕は、ずるくて、のろまで、臆病な、悪い人間だ」  一歩、また一歩、葵へ歩み寄った。足が冷たい水に触れる。  ぎゅっと、葵を抱きしめた。  両手で、その体を確かめるように、壊さないように、包み込む。  濡れそぼった彼女の身体は、氷のように冷たかった。 「一緒に帰ろう。僕たち悪い人かもしれないけど、悪い人なりに、あがいて、生きてみようよ」  僕が伝えられる、精一杯だった。  腕の中で、葵は子供みたいに泣きじゃくっていた。  彼女の鼓動が、濡れた肌を通して静かに伝わってくる。  生きてる。葵が生きてる。  僕たちは暫く、その場で互いを支えるように、ただ抱き合っていた。 1bef7329-6a5c-4be3-9b06-c957e60bd387 「……くしゅん」  人のいない静かな駅のホームで、ベンチに座って帰りの電車を待っていると、葵が小さくくしゃみした。  当たり前だけど、葵は着替えを持ってなかったし、僕もそこまで気が回らなかった。幸い、小さな駅舎の中にコンビニが入っていたから、そこでシャツやタオルを買ったけど、身体が冷えてしまっていることに変わりはない。  雨は降っていないけど、相変わらず空は曇りで、海沿いの風も容赦ない。夏という文字を危うく忘れかけた。 「……くしゅん」  もう一度、葵はくしゃみをする。僕は笑ってしまった。  肩にかけたタオルごと、葵の身体を両手で包む。僕の体温を移すように、彼女の冷たい背中や腕を手のひらでさすった。 「もうちょっとで電車来るから、今はこれで我慢できる?」  こくりと、葵は頷いた。  電車が来て、なるべく冷房が当たらない位置に座って、それでも寒そうな葵の手を握りながら、窓の外を眺めていた。 「……ありがと」  僕の肩に頭をもたれながら、葵が呟く。 「うん……」  僕はそれだけ、返事をした。
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