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「別に、難しく考えなくても。ただ人間として生まれた以上、世のため人のため生きたいだけですよ!」
へらりと笑った彼女は、ゴミ置き場に散乱したゴミを素手で拾い上げた―。
『世のため人のため』
都内某所、閑静な住宅街とは名ばかりの所狭しと立ち並ぶ住宅地。ほんの少し首を動かすだけで目に入る高級外車に、セキュリティーシール。通りを闊歩するのは、暇を持て余したご老人方。ここだけを切り離して見れば、日本は本当に不景気なのかと首を傾げたくなる。
その日、私は長丁場の仕事を終え、ふらつく足取りで帰路についているところだった。脳内を巡るのは、一体何度目なのか”これで辞めてやる”という決意。どうせまたいそいそと仕事に向かう癖に、まったく懲りない奴だ。そんな時である、視界の端を眩いばかりの光が掠めた。
キラリキラリ。それはまるで誘うかのような動きを見せる。なんだ、何かが反射でもしているのだろうか。私はつい好奇心に駆られ、光源の元へと視線を投げた。するとそこには1人の女性の姿があった。それも鬼気迫る勢いで草むしりを行っていたのだ。
「うおおー!唸れ私の右手、駆けろ私の左手!!」
一心不乱に動かされる腕に合わせて眩いばかりの金髪が揺らめく。なるほど、光源はこれか。私は憎らしいまでに照り付ける太陽をひと睨みし、ほんの気まぐれで彼女に話しかけた。
「こんにちは、草むしりですか?おつかれさ…」
そして気が付いた。彼女が一心不乱に引き抜いていたそれは、恐らく雑草ではない。誰かが丹精込めて育てている花々だ。
私は凍り付いたように立ち尽くした。これはもしや、近寄ってはならないタイプの…。彼女がゆっくりと顔を動かし、徐々にその全貌が明らかになる。ああ、やらかした―。
「そうなんですよー!え、てか誰??まあいいや、こんにちはー!今日はいい天気ですねー!!」
徹夜明けの脳を叩き起こすような元気な声。よいっしょー!と元気な掛け声と共に立ち上がれば、スラリと伸びた健康的な足が露わになった。
「あ、ああ…こんにちは。」
白状しよう。この時私は、太陽を背に笑う彼女に見惚れた。
「おじさん大丈夫ですか?なんか顔色悪い?」
ハッと気が付くと、つぶらな瞳が心配そうにのぞき込んでいた。
「いや!大丈夫だ!!」
思わず大きな声が出た。彼女はしばし固まっていたが、それも束の間大きな声で笑い出した。
「うるせーし!そんな叫ばなくても聞こえるって。おじさん面白いね!」
ケタケタと、それは可笑しそうに笑う彼女の笑顔に釣られ、気が付けば私も笑みを浮かべていたらしい。笑顔こっわ!と言う笑い声が上がった。
それからである。彼女、ユキとの奇妙な繋がりが出来たのは。
初めてユキに会ってから数カ月が経った。その間、私は性懲りもなく仕事に忙殺される日々を繰り返し、彼女と過ごすひと時を支えに生きてきた。白状しよう、彼女は確実に私の中でその存在感を増している―。
うだるような暑さと鬱陶しい程の蝉の鳴き声。そして吹き抜ける一陣の風。舞い上がった金髪がパサリと降りた瞬間、彼女は飛び上がった。
「キェェェーーー!!!」
手持ちの武器は一本の竹ぼうきのみ。対するは、狡猾さを宿した漆黒のカラス。哺乳類VS鳥類の戦いは今、ゴミ置き場と言う決戦の舞台で幕を開けた。
「…君は、一体何をしているのかな?」
またしても徹夜明けの鈍い頭を振りつつ、目の前で繰り広げられる一方的な戯れをしばし傍観していた私は、頃合いを見てユキに声を掛けた。
「あ、おじさん!見ての通り、悪いカラスを懲らしめているところですよっ!」
見れば、彼女の足元には生ゴミが散乱し、優雅に風を切るカラスの口元には戦利品らしき物が見え隠れしている。
そういえば―。最近やたらとカラス被害が多発してるとかで、注意を促すチラシを見たような。
「ああ、そうなのか。私はてっきり…。」
”カラスと遊んでるのかと思った”、そう言おうとして自重した。それはあまりに失礼と言うやつだ。
「あっ!こら待て!!」
気が付くと、いつの間にやら勝敗は決していた。勝者はまるで見せつけるかのように大空を羽ばたき、哀れな敗者を嘲笑うかのようにカーカーと鳴いた。後に残されたのは、食い散らかされたゴミの残骸と地団太を踏む敗者…と傍観者が1人。
「まぁ…なんだ、そのお疲れさん。」
ガックリと肩を落とす背中に向け労いの言葉を掛けつつ、私は苦笑いを禁じ得なかった。実を言うと、彼女はちょっとした有名人になっていた。…残念ながら悪い方で、だ。
初めて会った時もそうだが、彼女は少し…いや、かなり変わっている。善意であることには間違いないのだが、如何せん丹精込めて育てた花を引きちぎられて喜ぶ人間はそうそういない。あの後も、ひと悶着あったらしいと風の噂で聞いたくらいだ。今回も…と、悪い想像が働くのも仕方がない。
「あのさ、少し…こういった事は控えたらどうだろう?」
私は見るも無残なゴミ置き場を一瞥し、ため息交じりに問いかけた。きっと、大方の人間はただ眉を顰めるだけだろう。彼女がどれだけ必死にカラスと戦ったかなど想像すらしてくれない。
彼女は私の言葉に一旦は手を止めたが、またいそいそとゴミをかき集める。
「…もう分かってるんだろ?君がどれだけ頑張ったところで、一度向けられた白い眼は変わりようがない。…もう止めないか。虚しくなるだけだろう―。」
後半は、むしろ私の思いだった。彼女が必死になればなる程、事態は悪い方へと転がっていく。ただ善意で事に当たっていることが分かるだけに、歯痒くてならない。ならばいっそのこと―、そう思ってしまうのは筋違いだろうか。
「うーん、別にそんな難しく考えなくても。ただ人間として生まれた以上、世のため人のため生きたいだけですよ!」
当然じゃないですか、なんて。ゴミで汚れた手で髪を払うものだから、顔にまで汚れが付いてしまった。それにも気づかず、へらりと笑う彼女を見て思ったのだ。
「君は本当に…ばかだなぁ。」
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