② @夏希

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② @夏希

 そんな絶望の中にいたオレはある日、まだ夜も明けないような早朝に突然たたき起こされ、風呂に連れて行かれた。しかもいつもとは違うちゃんとした(・・・・・・)風呂だった。普段使う方はシャワーしかなく、しかもお湯なんか出ない。髪も身体もぜんぶ同じ石鹸で洗うから、ごわごわで泡の立たない髪も当時のオレには普通のことだった。  それに風呂は基本週に一度か二度で、それも昨日入ったばかりだから今日は違うはずだ。  なのにまるで犬や猫でも洗うように乱暴にではあったけど、使用人の手によって隅々まで洗われた。その上いい匂いのするなにかを肌に塗り込まれ、綺麗な服まで着せてくれる。  初めてのことだらけで、いったいなにが起こっているのか分からなかった。  驚きすぎて抵抗らしい抵抗もできないまま、ぼんやりしていると使用人が持った鋏がキラリと光ったのが見えた。オレはそこで初めて激しく抵抗した。  本当は身支度をされている時、少しだけ思ったのだ。もしかしたらこれから父さんに会えるのかもしれない。だから綺麗にしてくれるのだ。それなら抵抗はしない方がいい。  初めて父さんに会うのだから髪も切ってもらって、少しでも印象をよくしたい。これは媚びるということではなく、単純に父親に愛されたいという無垢なる想いだった。  だけど今までのことを思うと鋏を使ってなにをされるか――と、どうしても怖くて無理だった。  抵抗をし続けるオレに使用人は忌々し気に舌打ちをして、伸び放題だった髪を結ぶことでなんとか整えた、ということにしたらしい。 *****  使用人に連れて行かれた先に予想通り父さんはいた。  でも身なりのいい大人がふたりいて、どちらが父さんか分からなかった。  手前に座る優しそうな人が父さんならいいなって思ったけど、すぐに違うんだって気がついた。奥に座る男がオレを忌々しそうに睨んだからだ。  アレ(・・)がオレの父親だ――。  オレは期待して裏切られ、もう信じないと決めたのにまた期待した。そしてまた裏切られた。  あの男を父親として愛すことは――できそうにない……。 *****  ふたりのやりとりから分かるのは、どうやらオレは売られてしまったらしいってこと。それについては今更驚くこともなかった。  優しそうな方の人に手を引かれ、やっと父さんから解放されたと思うのに、オレの心は晴れなかった。いつの間にか取れてしまった髪を結んでいたゴムも、もうどうでもいい。顔を覆う長い前髪もちょうどいい。  間抜けなオレの顔なんか誰も見るな――。  Ωの辿る道なんて決まってる。期待するだけ無駄だ。飼われる先が変わっただけ、しかも今度はそういう奉仕(・・・・・・)も求められるかもしれない――。  できれば痛いことはしないで欲しいな……。  覚悟、とは違う諦めを胸にその人に連れられて行った先で、あんなにも会いたかったあの子、雪夜がいた。しかもオレ、雪夜の婚約者だって。今までのつらかったことがぜんぶなくなるみたいに一瞬で幸せに包まれた。  嬉しくて嬉しくて、信じられない幸運に雪夜に抱き着きそうになって、――気づくんだ。雪夜はオレに気づいていない。  それに少しだけムッとして、次第に悲しくなった。  泣いてしまわないように目に力を込め、見つめるのは雪夜だけ。  すぐに気づかなくても怒らないから、だからお願い気づいて? そんな願いを込めて見つめ続けた。  だけど、雪夜の瞳には戸惑いの色しかなくて。オレのことを初めて会ったみたいに見つめてた。  オレはどんなに姿かたちが変わっても雪夜のことすぐに分かったよ。  雪夜はオレのことを忘れてしまったの? オレは覚えていたよ。  ずっとずっと雪夜のこと考えてたよ。  雪夜にはオレは必要じゃなかったの? オレには雪夜が必要だよ。  雪夜は――多分αで、城戸よりもっとすごい名家のαで――オレは……使用人たちに何度言われたか分からない言葉、『みすぼらしく卑しいΩ』。  だからなの? だからオレのこと分からないの?   それとも分かっていて分からないフリをしてるの?  さらに雪夜の父親に『離れ』に連れて行くように言われ、何もかもが終わった気がした。  ここでもまた離れという名の狭い牢屋のような部屋に閉じ込められてしまうんだ。唯一の希望だった雪夜の傍にいてもオレは救われることはない――。  そう思ったのに実際は違っていて、離れは母屋に比べるとこじんまりとはしているけど随分と立派な建物だった。  本当にオレが住んでいいの? やっぱり雪夜はオレのこと気づいてた?  あのとき名前を名乗らなかったオレに怒って意地悪しただけ?  だってあのときは城戸に見つかっちゃいけなかったから、母さんに誰にも名前を教えては駄目って言われてたんだ。一生懸命謝ったら許してくれる?  一瞬だけ気持ちが浮上しかけたけど、すぐにそれは間違いだと分かった。  雪夜がオレに気づいていてもいなくても、怒っていても怒っていなくても関係ないのだ。 「僕もここで暮らすけど、誓ってきみにひどいことはしないよ。僕には好きな人(・・・・)がいるから、そこは信じてもらうしかないんだけど」  オレに言った雪夜の言葉。  雪夜は好きな人がいるって言った。オレじゃない誰かを好きなんだって――。  ひどいこと? 信じる? 雪夜にはオレとは違う好きな人がいるんでしょう?   それ以上にひどいことなんて――ないよ。  オレは雪夜にもう一度会えて嬉しかった。  初めて父親に会えたのが自分が売られるときだなんて絶望したけど、売られた先に雪夜がいて初めて父親に感謝した。  ――だけど。  雪夜はもうあのころとは違っていた。まるまるふわふわじゃなくなっていた。  抱きしめるといい匂いがして、「大好き」って言ったら照れたように笑ってくれて、オレのこと好きだって言ってくれたのに――。  ――雪夜()オレを蔑むの――?  オレが卑しいΩだから、だから嫌いなの?  雪夜の好きな人は()? 雪夜の好きな人は()? 何だったらオレのこと好きになってくれた? β? α?  でもオレはオレだから、オレ以外の何者にもなれないよ……。  オレが大好きだった雪だるまは溶けて流れて、消えてなくなったんだね。  残ったのは昔母さんにせがんで作ってもらった雪だるまのマスコットと、オレの想い――――だけ。
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