6 想い、甘く苦く

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6 想い、甘く苦く

 初めての外出が大失敗に終わり、僕は落ち込んでいた。厳密に言えば僕のせいではないのかもしれないけれど、僕と出かけたことで夏希が悪意に晒されたのは事実で、僕はなにもできなかったから――。  そしてそれ以上に僕を落ち込ませたのは――、夏希は外出時のアレコレについてなにも(・・・)言わなかった。楽しかっただろうこともなにもかもなかったかのように振る舞ったことだ。  折角の楽しい思い出までそんな風にさせて(・・・)しまったのは僕が不甲斐ないせいだ。それがとても残念で、悔やんでも悔やみきれなかった。  だからこそこのままでいいはずがないと思った。起きてしまったことを悔いてばかりいてもなにも始まらない。あのころの自分のように、理不尽にも我慢してひとりで耐えるなんてこと、夏希にはさせたくなかった。  その為に僕は夏希が楽しく過ごせるようにより一層努力しようと思った。  そうは言っても勉強以外にこれといって興味を示さない夏希の為になにができるのか。  だったら夏希の身体に少しでも肉がつくように『食』に興味が持てるかどうか試してみてもいいのではないだろうか。うまくいけば見た目で侮られることも減るかもしれない。これは外側だけに囚われる人たちと同じだと言えなくもなかったけれど、実際僕の見た目が変わっただけで周囲の反応は激変した。だから少しだけ妥協することにしたのだ。勿論夏希が嫌がれば、無理強いするつもりなんてないけれど。  それに元々夏希には好きな物を好きなだけ食べてもらおうと思っていた。ただ夏希の好みを本人に訊いても分からず、出した物はぜんぶ食べてくれていたからそのままになってしまっていたのだ。  夏希は普段の食事に殆ど反応を見せなかった。我慢して食べている、という感じはしなかったから不味いわけではないと思う。けれど美味しいわけでもない?  それともどちらでもなく、食に興味がない?  いや、興味がないわけではないと思う。以前僕が不慣れながらも気まぐれに作ったホットケーキ、大きい〇と小さな〇で雪だるまみたいに並べてチョコペンで顔を描いた、ニコニコの笑顔だ。夏希はそれを見て最初は驚いていたようだったけれど、嬉しそうに食べてくれた。  夏希はホットケーキが好き? でもさすがにそればかり食べていては病気になってしまう。  うーんと考えて、夏希の『好む味』を他にも探せばいいのだと思った。さすがにお手伝いさんにそこまでのことはさせられないから自分でやるつもりだ。  料理の経験のほとんどない僕にうまくできるか分からないけれど、ネットを漁ったりお手伝いさんに訊いたりして簡単なものから作るようにした。  正直学校の勉強もあったし大変だったけれど、外出時のアレによってますます自覚させられた夏希への自分の想いを意識せずに済んで助かる、というのも本当だった。  僕のへたくそな料理に、最初は出されたものをなんの感想もなく黙って食べていた夏希だったけれど、しばらくすると唯一見える口元に変化が現れた。僕が作ったホットケーキを食べたときみたいに。  おいしいものや好きだと思えるものを食べると口角が目に見えて上がるようになったのだ。  夏希の中でもなにが好きなのか嫌いなのか、分かってきているということなのだろう。自分の苦労が報われたというよりも、夏希の『好き』が少しずつ増えていることが嬉しかった。  夏希は甘いものが好き。辛いものが苦手。濃い味付けより薄目の優しい味付けが好き。  開かれたノートには試行錯誤の跡が詳細にびっしりと書き込まれていて、見えてきた成果に目を細めた。  コーヒーより紅茶。紅茶には必ず砂糖をスプーンで二杯入れる。ミルクを入れてくるくるとかき混ぜて見せると驚いたように息を飲み、まるで応援? でもしてるみたいに両手を胸の前でギュッて握るんだ。  夏希にとって、カップの中でくるくるとミルクが渦を作るのが、遊びのように思えて楽しいのかもしれない。  こんななんでもない少しのことにも可愛い反応を見せる夏希が……  ――いとおしい。  ダメだと思うのに感情が溢れて止まらない。 「夏希、夏希も料理してみる?」 「オレが……? できるかな……」 「大丈夫だよ。僕もつい最近までお湯だって沸かしたことなかったんだから。あ、さすがにそれは言いすぎ?」  僕の冗談に夏希もくすりと笑ってくれた。  可愛い。  いとおしい。 「何がいいかなぁ。お湯沸かす?」  冗談の追加投下にバカにされたと思ったのか、夏希はムゥと唇を尖らせぷいっと横を向いた。  冗談がすぎたかと思い慌てて謝ると、夏希はすぐに笑って『べー』って舌を見せた。夏希の方も怒ったフリだったのだと分かりキュンとする。  好き。  触れたい。  抱きしめたい。  夏希の方に手を伸ばしかけて、止める。  こんなのはただのバグだ。あり得ないんだ。僕が好きなのはあの子で、夏希は家族のようなもので、こんな気持ち持っちゃいけない。  何度となく自分に言い聞かせて誤魔化し続けてきたけれど、もう限界だったのかもしれない。 「夏希は何が作りたい?」 「――ホットケーキ、作りたい……」 「分かった。ふわっふわのやつね」  こくりと頷く夏希にまたキュンとして。  平常心を装って、なんとか手順と注意点を伝えたオレは夏希が調理するのを傍で見守りながらこっそり溜め息を吐いた。  一生懸命ホットケーキの素を混ぜる姿にキュンが止まらない。  その指先までいとおしく思ってしまうんだ。  夏希のなにもかもがきらきらと輝いて見えるんだ。  そんなあの子に対する裏切りとも言える想いを抱いたことで罰が当たったのか、ふわりと甘い匂いが鼻腔をくすぐりくらりと世界が揺らいだ気がした。  そして僕の中の心の天秤がカタリと音を立てて夏希の方に傾く――。カタリ、カタリ……。  なんで夏希を想う気持ちがバグなんだろう?  なんで目の前にいるいとおしい存在に触れては駄目なんだろう?  なんで僕はあの子じゃないとダメなんだろう?  夏希()いいだろう?  夏希()いいんだ――。  ホットケーキの焼ける甘い匂いとは別の甘く、腹の奥の欲望を誘うような匂いが一層強くぶわりと香った気がして、  僕の頭には目の前の夏希のことしかなかった――。  夏希は僕()――――。  夏希に手を伸ばすのを今度は止めなかった。
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