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③
離れに戻ると夏希は起きていて、ソファーの隅っこの方にちょこんと座っていた。一応はソファーに座ってもよい、と分かってくれたらしい。
「夏希、おはよう。よく眠れたかな? 朝ごはんはもう少し後になるけど、大丈夫?」
夏希はびくりと肩を震わせ僕の方を見ないまま、こくりと頷いた。
震えてはいないものの明らかに怯えの混じった様子に、あの書類には書かれていないなにかが夏希をそうさせるのだと思うと胸がチクリと痛んだ。
早くどうにかしないとと気持ちが急く。
もっとコミュニケーションをとるにはどうしたらいいのか――。
夏希と仲良くなりたいと言った昨日の言葉は本心からだ。恋人や番、結婚したりはできないけれど友人や家族のような、そんな関係になれたらいいと思う。
「あの、さ。髪、切らない?」
まずは相手の顔を見て話したいと思った。だからそう提案して、夏希も頷いてくれたものの家に呼んだ美容師さんに髪を触られることを嫌がった。動物のように唸り声をあげ、Ω専用の避難部屋に逃げ込もうとまでしたのだ。
だから美容師さんには謝って、帰ってもらったんだけど。
「――僕が切ろうか?」
髪を切ることに一度は頷いてくれたんだからもしかして? と思っての問いだった。そうしたら夏希はこくこくと頷いてくれて、僕の前にちょこんと座った。
なにこれ可愛い。
あんなに怯えて威嚇しまくっていた仔猫がちょっとだけ懐いたような、僕だけが夏希の特別になったような、そんなむずむず感。ニヨニヨと緩む口元を片手で隠して髪を切る準備をした。
*****
「素人だから綺麗に切れなかったらごめんね」
そう言って、長いぼさぼさの髪に毛先から少しずつ櫛を入れ、梳かしていくと傷んではいるもののサラサラの柔らかい髪が出現した。慎重に慎重に鋏で髪を切っていく。緊張しすぎて何度も唾を飲み込みごくりと喉が鳴る。
「ふふっ」
小さく聞こえた笑い声。夏希が笑ったのだ。
「え? くすぐったかった?」
「慎重、すぎ……ふふ」
どうやら僕が慎重に恐々切っている様がおかしかったようだ。
「だって夏希の髪綺麗だから、変な風にしたら人類の損失だよ」
なんて、昔あの子が言ってくれたような大袈裟な物言いをして笑う。
「……」
夏希も笑ってくれると思ったのに、黙って俯いてしまった。
難しいな、って思った。でもまぁまだ始まったばかり。今は少しでも夏希に心を開く準備があることが知れただけでよしとしよう。
チョキチョキと切っていき、短くもなく長くもない微妙な長さまで切って、さぁ前髪をってなったとき、夏希はまた唸り出した。
「前髪は切りたくない?」
「――うん……」
「なにが嫌? 目が隠れるくらいなら大丈夫?」
少しだけ逡巡する様子を見せ、夏希はこくりと頷いた。
僕は全体のバランスも考えて、目が隠れるギリギリの長さまで前髪を切った。
素人にしてはイイできじゃないだろうか。
本当はもっと短くしたかったけど、夏希が嫌がるならしょうがない。
顔見たかったんだけどな――。
こうやって夏希と僕の離れでのふたり暮らしが本格的に始まったのだった。
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