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「井上さん、保険会社の方からお問合せです。」
「はい。」
本当は提出した書類に関しての問い合わせなんてあってはいけないことなのに、悟は少し胸が躍った。あの人だったらいいな、なんて。近くにあった電話の、光っている保留ボタンを押して悟は受話器を取った。
「お電話代りました、井上です。」
『いつもお世話になっております。◯◯損保、東東京支店の瀬乃です。』
やった、彼女だ。
おしとやかで、高過ぎない声の瀬乃さん。時折電話で仕事のやり取りをするだけの、会ったことも無い声の主。無駄なやり取りは無く、それでも優しい人柄が伝わって来るなんて、ちょっと妄想が足されているのかも。何かしらのフィルターを通して何割増しで美化されてるのかもしれなかった。
「お世話になっております。」
受話器を当てた右耳がくすぐったい。
『えっと…◯◯をご購入された、笹山様の書類に関してなんですが…』
手元の書類を見ながら話しているのか、カサカサと紙の擦れる音がした。
「はい、…はい。あ、そうでしたか?申し訳ございません。では確認させていただきまして、折り返しお電話させていただきます。…はい。失礼致します。」
電話を切る悟の隣で、先輩の川端がニヤニヤした。
「『電話の君』だった?」
悟はカッと顔を赤くした。
「『約束の君』に『電話の君』。
井上も忙しいねぇ。」
「なんですか、それ。」
悟は目を細めて川端を見た。
「もしどっちからもオッケーもらったら、どっちと付き合うのかな?って。」
川端は両手を頭の後ろにして、ギィっと椅子の背もたれを倒す。
「そんな…一人は連絡も取れないですし、もう一人は会ったことも無いじゃないですか。」
「だ〜か〜ら〜。もしだよ、もし。」
悟は人差し指で鼻の頭をさすった。
「そ、それは…もちろん。『約束の君』です。」
「へぇ。もちろんなんだ。」
川端は面白そうに笑った。
「この間はタイミング悪かったけど、またセッティングしてやるから。玉砕したら『電話の君』に会わせてやるからな。」
そう言うと川端はガシッと悟に肩を組んだ。
「ありがとうございます。でもちょっと怖いですね。」
「何が?」
「いやぁ、声だけで憧れてしまって。実際会った時を思うと、ショックを受けてしまいそうで。」
プハハハハッ
川端は笑った。
「井上って、そんな恋ばっかなのな。」
悟は何も言い返せなかった。
「ち・な・み・に
『電話の君』は今フリーらしいぞ。」
川端がウインクして、悟は真っ赤になった。そん悟を見て、川端はまた声を上げて笑った。「ほんとウブよな。」そう言うと、雑談はそこまで。と二人は仕事へ戻って行った。
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