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プロローグ・勇者のママは今日も魔王様と
重厚な城門の鉄扉がゆっくりと開かれました。
門の前で黒髪の子どもが振り返ります。
「いってくる」
「いってらっしゃい。気を付けるんですよ?」
「わかっている。オレはゆうしゃだ、しんぱいはいらない」
「そうですね、勇者のあなたならきっと大丈夫ですね。あ、鼻水がでてます。チーンは?」
「チーンッ」
私がハンカチで鼻を押さえてやると、五歳になったばかりのイスラがチーン! 勢いよく鼻をかむ。
イスラは私の息子……というのは私が男なので語弊があるかもしれませんね、さすがに生んだわけではありませんから。でも彼が勇者なのは本当。イスラは私が大事に育てた勇者です。
勇者は背中に木でできた剣を背負い、肩には荷物が詰まったバッグを斜めにかけている。
「水は持ちましたか? 食べ物は?」
「だいじょうぶだ。ははうえ……じゃなかった、ブレイラがつくってくれたおやつをちゃんともったぞ」
ブレイラのおかしはおいしいと手作りを喜んでくれるイスラに目を細める。
私を母上とうっかり呼んでしまう癖は困りものですが、素直に喜んでくれるのは嬉しいです。育てた子供に名前を呼びつけにされるのも面白くありませんが、まあいいでしょう。男の私が母上と呼ばれるくらいなら、相手が幼くても『ブレイラ』と名で呼ばれる方がマシですから。
「お腹が空いたら食べなさい。食べる前はどうするんでした?」
「てをあらう」
「お利口ですね、正解です」
いい子いい子と外跳ねの黒髪を撫でる。
するとイスラは照れながらも誇らしげに胸を張りました。
イスラは赤ん坊の頃からあまり表情が変わらない子で、どちらかというと無愛想。あまり笑わないし、泣かない子でした。
でも、ずっと側にいて育てたのは私です。どれだけ無愛想でもイスラの喜怒哀楽は分かります。少し無口で表情が乏しい子供ですが普通の子供、普通の勇者です。
「そろそろしゅっぱつのじかんだ。いかなければ」
「もう旅立ちの時間なんですね」
「ああ、ゆうしゃだからな」
「ほら、盾を忘れてますよ。必要でしょう?」
「さすがブレイラ」
手渡した鍋の蓋を勇ましく装備する。
剣と盾、食料も持った。これで旅立ちの準備は万端だ。
「いってくる」
そう言うとイスラは別れの寂しさを振り切って勇ましく歩いていく。
勇者は親元から旅立って世界を救わなくてはならない。それが勇者の宿命です。
小さくなる背中をじっと見つめていましたが、伝え忘れたことを思い出して声を張り上げる。
「夕飯までに帰ってくるんですよー!」
あまり遠くへ行ってはいけませんよー! と大きく手を振ると、イスラは振り向いてこくりと頷き、いつもの遊び場へ歩いていきました。
「まったく、変な遊びを覚えてしまいましたね」
困ったものです、とイスラが見えなくなるまで見送りました。
そう、今はまだごっこ遊び。行き先は丘の向こうの森。
最近のイスラは勇者の旅立ちごっこに夢中で、それに毎回付き合わされている。本当の勇者とはいえ幼いイスラに本当の旅立ちは早すぎですから。
「イスラは遊びに行ったのか?」
ふと背後から声を掛けられました。
「あ、ハウスト」
振り返って名を呼ぶと、ハウストが優しい面差しで私を見ています。
側まできた彼は私の腰にそっと手を回して抱き寄せ、イスラが歩いていった方を見る。
「いつもの森へ遊びにいきました」
「そうか、では遊び相手を行かせよう」
ハウストの影から黒い毛並みの狼が二頭姿をみせる。
普通の狼の三倍はある巨体に、裂けた口からは刃物のような鋭い牙が覗いている。あきらかに普通の狼でないそれは魔狼です。
魔狼が私の腰に頭を撫でつけて甘えてくる。よしよしと頭を撫でてやると気持ち良さそうに目を細めてふさふさの尻尾を振りました。
「イスラのところに行ってきてくれますか?」
「ワオン!」
魔狼は返事をするように一鳴きして駆け出しました。
太い前足で地面を蹴り、あっという間に見えなくなる。
「ちゃんと夕飯までに帰ってきてくれればいいんですけど……」
「大丈夫だろう、イスラがお前の作る食事を忘れるとは思えない」
「そうですが、最近のイスラは旅立ちごっこに夢中ですから」
「旅立ちか……。勇者らしい」
「はい、勇者の自覚はちゃんと芽生えてますよ」
「それは頼もしいな、勇者の旅立ちは宿命だ。いずれ本当に旅立つ時がくるだろう。だが」
ハウストはそこで言葉を切ると思案気に顎を撫でた。そして。
「魔王はここにいるぞ?」
どうしたものかとハウストが苦笑する。
私も何とも言えない複雑な笑みを浮かべてしまう。
そう、ハウストこそが全ての魔族を統べる王、魔王。
勇者が倒すべき魔王はここにいます。
古来より勇者が対峙するのは魔王です。しかし、勇者イスラは魔王の居城で魔王ハウストと私が育てています。私たちの子どものようなものです。
「……ま、まだ子どもですし、そういうことはイスラがもう少し大きくなってからにしませんか? そういうの早いですよ」
「俺もまだ早いと思っていたいが、お前だって勇者を育て始めたのは子どもの頃だっただろう。何が起きるか分からないものだ」
「その時はまだ勇者も卵でしたよ。それに、勇者の卵を私に渡したのはあなたじゃないですか」
そう言いながら、私は初めてハウストと出会った時のことを思い出す。
それはまだ私が十歳にもなっていない子どもの頃。嵐の夜に出会ったハウストに、勇者の卵を渡されたのが始まりでした。
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