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ああ、そういうことだったのか―――オリヴィエの話を聞いて深雪が真っ先に抱いた感想がそれだった。不思議と怒りや憤りを感じることもなければ、心胆を寒からしめることもない。もっとも、驚きや衝撃が無かったと言えば嘘になるが。
「ああ、すみません……つい感情的になって見苦しいところを見せてしまいました。深雪……大丈夫ですか?」
オリヴィエは幾分か冷静さを取り戻したのだろう。水やりをする手を止め、じっと考え込む深雪に気づいて声をかける。
「ああ、そうか……だから奈落だけ違和感があるんだ」
「……どういう意味ですか?」
「何て言えばいいかな……神狼やシロ、俺はもともとこの街にいた人間だから、《監獄都市》にいるのは当たり前だ。マリアや琴原さんも『囚人』として収監されたし、流星は仕事の都合で、オリヴィエは宗教が理由でこの街に来ている。みんな、それぞれこの街にいる理由があるんだ」
「ええ、そうですね」
「でも、奈落だけがこの街にいる理由が無い。《ヘルハウンド》の仲間のためかと思っていたけれど、藍光霧さんにも今は執着してないみたいだし。だから、奈落がこの街にいなきゃならない理由が何かあるんだろうなって」
「なるほど……」
「奈落は俺たちを監視しているって考え方もできるけど、見方を変えれば《死刑執行人》の制御装置の役割を負っているとも言えないか? 俺たちが《臨界危険領域者》になった時、裏切って犯罪に加担するようになった時、それを未然に防ぐために」
しかしオリヴィエは、そう簡単に不満や不安を払拭できないらしい。
「制御装置くらいならいいのですが……彼は腕が立つかわりに情け容赦が無さ過ぎる。それに……あの男が判断を誤らないとも限りません」
「肝心なのは、奈落が望んで決めたわけじゃない。そんな風にチームを組んだのは所長だ。だから奈落を責めるのは筋違いだ」
「つまり……悪いのは奈落ではなく六道だと?」
「善とか悪じゃなくて……そうせざるを得なかったと思うんだ。東雲探偵事務所は《中立地帯の死神》という特殊な立場にいて、《監獄都市》のゴーストなら誰もが恐怖する存在だ。でも、裏を返すと俺たちを制御するものは何もない。だから、ありとあらゆる事態を想定して、メンバーの中に《死刑執行人》殺しのゴーストを潜ませて監視させた……それくらい慎重に慎重を重ねないと《中立地帯の死神》にはなれないんだよ、きっと。正直なところ……俺もそこまでしなければならないのかと戦慄したけどね」
「……そうでしょうか?」
「オリヴィエの怒りも理解できるけど、奈落の負担も相当なものだと思う。誰だって仲間を監視するような仕事なんて、普通はやりたいとは思わない」
深雪も事務所に入ったばかりの頃に知っていたら、オリヴィエのように憤っていたかもしれない。いくらゴーストとはいえ、互いを監視させるようなやり方なんて非人道的だと反発の声を上げたかもしれない。でも、今は違う。六道の考えも多少は理解できるつもりだ。
何より深雪と六道は、過去に《ウロボロス》の暴走という苦い経験がある。
(所長が北斗政宗……『ロボ』であるなら当然、二十年前の惨劇も経験している。だから余計に《死刑執行人》殺しの必要性を感じたのかもしれない)
抑止力など必要ないに越したことはないが、だからと言ってゴーストがアニムスを持つ事実は変えられない。力が暴走してしまったゴーストに対して、どれだけ制御の手段を持ち得るか。深雪たちが高アニムス値のゴーストである以上、避けては通れない問題なのだ。
オリヴィエは深雪の反応が意外だったらしく、複雑そうな表情を見せる。
「……深雪は奈落を信頼しているのですね」
深雪は「当然」と答えてにかっと笑う。
「もし奈落が『気に入らない奴はぶっ殺す』とか暴君みたいな性格だったら、俺たちはとっくに死んでる。でも、現実はそうなってない。この結果が全てだと俺は思ってる」
「……」
「オリヴィエの納得がいかないって気持ちも分かるよ。ただ、この街は特殊だ。奈落が微妙な立ち位置にいるのも、本来はそこに原因があるんだ。だから……できれば今まで通りでいて欲しい。もちろんオリヴィエも含めてね」
オリヴィエは誰に対しても対等であり、平等であろうとする。だからこそ人間関係のパワーバランスにも敏感なのだろう。彼の価値観からすると組織に必要な上下関係ならともかく、隠された不文律のヒエラルキーに支配されるなど耐え難い苦痛であり、許せないことなのだ。
だが、それはオリヴィエにどうにかできる問題ではなく、奈落にもどうにもできない。二人が争って解決できる問題ではない以上、対立そのものが無意味だ。
オリヴィエは完全に納得したわけではないものの、深雪の言うことにも一理あると考えたのだろう。小さく溜め息をついて頷いた。
「……分かりました。深雪がそこまで言うなら今回は私の方が折れましょう。ただ、あの男の不遜な顔を目にすると、どうにも腹が立ってしまって……! まったく、どうして彼はああも、ふてぶてしいのでしょう!?」
「ははは……」
深雪は苦笑する。オリヴィエが奈落を許せないのは、何だかんだ言いながらも信頼していたからだろう。奈落に裏切られたと感じるからこそ、腹を立てているのだ。奈落がふてぶてしいのは今さらなので、怒りの原因はそこではない。
もっとも、オリヴィエ自身はその事に気づいていないらしい。それならそれでいい。深雪が指摘したら、かえってややこしいことになりそうだ。
そう思っているとオリヴィエは肩を落として続ける。
「それに……私が奈落に怒りを感じるのは何も秘密の件だけではありません。《東京中華街》に潜入した時、悪魔は目の前でした。姿は見えずとも私には分かるのです。認めたくはありませんが……悪魔は私の半身なのですから。しかし、奈落に制止されたがために悪魔を追い詰められなかった。もし奈落が止めていなければと……返すがえすも、あの時のことが悔やまれてなりません」
「あれは仕方がなかったんだ。俺も撤退は最善の判断だったと思う」
「しかし、あれが悪魔を倒せる最後のチャンスだったかもしれないのですよ? 私もこの街にずっといられるわけではありません。いつ担当地域が変わるとも知れないのに……絶好の機会を逃してしまった!!」
それを聞いた深雪はどきりとする。
「……! ひょっとして何か具体的な話が出ているとか?」
「そうではありませんが……全てはヴァチカンが決めることですから」
「……。そうか……」
いつまで《監獄都市》にいられるのか、オリヴィエ自身には決定権が無いのだろう。東雲探偵事務所に所属している《死刑執行人》たちはいずれ事務所を去るだろう。いつかの六道の言葉が、深雪の脳裏にまざまざと甦る。
深雪は少し考えこんだ後、オリヴィエに告げた。
「悪魔のことは焦らずにいこう。まだチャンスが潰れたわけじゃない。それに悪魔と再戦するなら、みんなで力を合わせないと。確実に勝利を掴みたいなら、奈落との間に確執を作るのは得策じゃない」
「むう……確かにそうですが……」
オリヴィエはやはり不服そうだ。理性では深雪の言うことが正しいと分かっていても、感情的には納得いかないのだろう。オリヴィエが事態を受け入れるまで、もう少し時間が必要なのかもしれない。深雪は話題を変えることにした。
「そういえば……シロと火澄ちゃんはどう?」
するとオリヴィエは一転して笑顔になった。
「ええ! とても頑張っていますよ。机に座って授業を受けるの初めてのようですが、二人とも熱心に先生の話に耳を傾けています」
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