第九話 学校

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第九話 学校

 事の初めはシロが一冊の本を深雪に見せてきたことだ。深雪が《東京中華街》から火澄を連れて戻り、シロの怪我もだいぶ良くなった頃のことだ。 「ねえ、ユキ。これ見て! 《ニーズヘッグ》の静紅(しずく)が貸してくれたの! お花の絵がとってもきれいでしょ?」  《ニーズヘッグ》は以前、シロが身を寄せていたチームだ。シロはチームを抜けた後もメンバーと懇意(こんい)にしている。中でも皆守静紅(みなもりしずく)はシロのお姉さん的な存在であり、怪我をして動けないシロを気遣って本を貸してくれたのだろう。  見ると児童書らしき本の表紙には庭園の風景が描かれており、色とりどりの美しい花が咲き乱れている。 「良かったね。俺もちゃんと読んだことはないけど……世界的に有名な児童文学だよ」 「そうなんだ。これ……何て書いてあるの?」  シロは本の題字を指差して言う。何故、そんなことを尋ねるのだろう。深雪は(いぶか)しみながら答えた。 「え? 『秘密の花園』じゃない……?」 「『ひみつのはなぞの』って読むんだ。でも……『ハナゾノ』ってなに?」 「……え?」 「え?」  不思議そうに首をかしげるシロ。一瞬、何かの冗談かと思った。シロは本気だ―――そう気づいた時の深雪の衝撃といったらなかった。 (そうか……! シロは《監獄都市》の外に出たことがないから、この街に存在しないものは知らないんだ‼)  しかも『秘密の花園』でシロが読めるのは真ん中の『の』だけ。平仮名と片仮名は辛うじて読めるが、漢字がまったく読めないらしい。考えてみればシロは学校に行ったことが無いから、字が読めなくても何ら不思議ではないが、その事実を目の当たりにした時のショックは大きかった。《ウロボロス》のメンバーでさえ字は問題なく読めたのに。 (そういえば《監獄都市》で生まれ育ったゴーストは、字とか計算とかどうしてるんだろう?)  気になった深雪は火澄に聞いてみることにした。シロと同様、《監獄都市》で生まれた火澄は外の世界に出たことがなく、学校にも通ったことがない。確認したところ、案の定というべきか、火澄も難しい漢字は読めないという。 「《壁》で生まれ育った子には、そういう子が多いよ。あたしはお父さんに字や計算を教えてもらったけど……お父さんも忙しいから基本的な事しか身についてないし。《壁》の外から来た子は難しい字も読めて、計算もできるからすごいなって思う。ちょっと羨ましいなって思うこともあるよ」  子ども同士で教え合うこともあるそうだが、ほとんどのストリート=ダストは仕事やバイトをしており、勉強をする時間がなかなか持てないのが現実だ。《壁》で生まれ育った子どもに至っては基礎学力が覚束(おぼつか)ないので、教えられた内容が簡単には身につかない。 (こ……これは……!!)  深雪は愕然(がくぜん)とする。ある程度は想像していたものの、ここまで酷いとは。どうにかすべきだと思うが、《監獄都市》には学校がないので学ぶ場すら無いのだ。  深雪は悩んだ末、オリヴィエに相談してみることにした。すると彼の孤児院では無償で授業が受けられるという。オリヴィエが中心となって教育普及活動を進めていると聞き、シロと火澄もその授業に参加することになった。 「ただ……問題もいくつかあります。一つは教える側の人手の確保です」 「そうだよな……《監獄都市》には子どもはたくさんいるけど、先生はあまりいないもんな」 「全くいないわけではありません。《監獄都市》に収監されたゴーストの中には元教員だという人もいます。ただ……日本の先生方は総じて宗教への警戒感が強く、なかなか我々の活動を理解してもらえないのです」 「それは仕方のない面もあるよ……日本人にとって宗教って繊細な問題を孕んでいるから」 「なるほど……ただ、私たちでは教えられることに限りがあるので、何とかして協力者を増やしたいのです。幸運なことに協力していただける先生が見つかっても、孤児院の力だけでは彼らに十分な報酬を支払うことができません。みな生活を支える仕事があり、教師はあくまでボランティアという形になります。ですから、時間の融通が利かないことも多いのです」 「それは深刻だな……」  オリヴィエは悩ましげに溜息をつく。深雪も腕組みをして考え込んだ。 (これはもっと大勢の人を巻き込んでいかないと解決しないぞ……! そもそも俺たちの街の問題なんだし、オリヴィエの孤児院に任せきりにするのもおかしな話だよな。今度、機会を見て《収管庁》の本間さんに相談してみよう)  学校を設立するとなれば人手はもちろんのこと、施設や設備も整えなければないし、手続きや予算も必要だ。本間はともかく、長官である九曜計都(くようけいと)が承諾してくれるとは思えない。困難は百も承知だが、それでも深雪は《監獄都市》で学校を再建したかった。  どこで生きるにしても基礎学力は必須だ。読み書きができなければ、《監獄都市》で生きるうえでも相当なハンデになる。文字が読めないために不利な立場に置かれている子どもは大勢いるのではないか。  もうひとつ、深雪が学校にこだわるのは火澄のためでもある。火澄は《ディナ・シー》というチームにいたが、《東京中華街》から戻って以来、チームメンバーとぎくしゃくしていた。火澄の母親が紅神獄(ホン・シェンユイ)だと知れ渡ってしまったせいで、「火澄は《中立地帯》のゴーストじゃない」、「《東京中華街》のゴーストなら仲間じゃない」と主張するメンバーが現れたのだ。  予想できた展開とはいえ、深雪はショックと憤りを隠せなかった。 「それって、火澄ちゃんにチームから出て行けってことか!?」  しかし、火澄はあくまで冷静だった。 「……仕方ないよ、あたしのお母さんが紅神獄(ホン・シェンユイ)なのは事実だもん。《ディナ・シー》の子に嫌われたのはショックだけど、だからといってお母さんのことを否定したくないし」  そう返されてしまうと深雪は何も言えない。 「でも……これからどうするんだ? あんなに《ディナ・シー》のメンバーと仲が良かったのに……本当にチームを離れるのか?」  火澄は「わからない」と小さく首を振る。 「もう少し様子を見てみる。もしかしたら一時的なものかもしれないし。でも続くようなら……《ディナ・シー》を離れるかもしれない。これ以上、ケンカするのも嫌だし、仲良くしてくれる子たちに迷惑かけたくないから。その時のことはその時、考えるよ。だから心配しないで、雨宮さん」 「火澄ちゃん……」 「もう……そんな顔しないで。あたし、こう見えてもしっかりしてるんだから! あたしには雨宮さんやシロちゃんやお父さんだっているし、今は学校で字を教わってるから、暇な時は本を読むようにしているの。『秘密の花園』、あたしも最後まで読み終わったよ!」  そう言って火澄は明るく笑ってみせるが、《東京中華街》の動乱に巻き込まればかりで平気なわけがない。火矛威と血が繋がってないことを暴露され、生みの母である真澄の死を目の当たりにし、それが原因で仲の良かった《ディナ・シー》の仲間から疎外されるなんて、辛いし悔しいに決まっている。それでも彼女は深雪や火矛威を心配させまいと気丈に振る舞っているのだ。 (火澄ちゃんがどんなに大人びていても、あれだけいろいろあった後でチームを離れるだなんて相当、ショックに違いない。火澄ちゃんみたいにチームを離れてしまうと、ストリートの子どもはほかに居場所がないんだ……)  だから、深雪は火澄のためにも「居場所」を作ってあげたかった。  それだけではない。もし学校が上手くいけば、アニムスがあっても発現しない『持たざる者(アンホールド)』の子どもたちや、ストリートに馴染めない子どもたちにも「居場所」を作ってあげられる。学校で学べばストリートダストたちはアニムスと暴力以外に、「生きるための武器」を得ることができる。  彼らが学力を身につけ、世界は《監獄都市》だけでないことを知れば、ゆくゆくはアニムスの強さと暴力だけで序列(ヒエラルキー)が決まってしまう、この街の歪な構造を変える蝶の羽ばたきになるかもしれない。  険しく困難な道のりかもしれないが、将来的には人間の子どもとゴーストの子どもが同じ空間で学べるようになればいいと思う。オリヴィエの孤児院のように。 (この街は本当に問題だらけだ。みんな生き残ることに必死で、他のことには構っていられなかったんだろう。でも俺たちの代で変えないと、いつまでも東京は廃墟のままだ。少しずつでも解決していかないと……!)  火澄については、もう一つ気になることがある。陸軍特殊武装戦術群の雨宮マコトと碓氷のことだ。  深雪は《東京中華街》に連れ去られた火澄を救出するため、二人に火澄に《レナトゥス》がある可能性をほのめかした。案の定、彼らはその情報に強い関心を示し、おかげで火澄を救出することができた。しかしその結果、火澄の秘密が暴かれてしまうリスクを抱えることになってしまったのだ。  ところが深雪の懸念に反し、《中立地帯》に戻ってきた雨宮と碓氷はさほど火澄に関心を示さなかった。雨宮はいつもに増して厳しい顔のまま何事か考え込んでおり、それどころではないといった様子だ。  とはいえ、彼らが火澄への興味を失ってしまったとは限らない。それを確認するための口実として、深雪は奈落のアドバイスを参考にしてみた。つまり、格闘技の教えを乞うふりをして彼らの様子を探るのだ。  陸軍特殊武装戦術群のメンバーは、深雪が《東京中華街》に潜入する際に協力を仰いでからというものの、頻繁に姿を見せるようになった。さすがに雨宮と碓氷は建物の中まで入って来ることはないが、ニコと剣崎の二人はよく事務所で見かける。  ニコと剣崎はそれぞれ『F‐二二五号機』と『剣崎玲緒』というのが正式名称らしいが、シロや海は『ニコちゃん』、『レオちゃん』と呼んで親しくしている。  奈落や神狼、マリアは陸軍特殊武装戦術群のメンバーが事務所をうろうろすることを露骨に嫌がるが、六道が異を唱えないところを見ると、すでに双方の間で合意はされているのだろう。  まだ流星や神狼(シェンラン)も本調子ではなく、東雲探偵事務所の守りが手薄なままなので、なりふり構っていられないのは確かだ。
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