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第十二話 《関東大外殻》の慟哭
それから火矛威と別れ、すっかり暗くなった頃、深雪は東雲探偵事務所へと戻った。六道にその日の進捗を報告し、シロや海と一緒に遅めの夕食を取ったあとも、明日の予定の確認や必要な書類の準備などに勤しんだ。ようやく全てを終え、シャワーを浴びて自室に戻った時には日付けが変わろうとしていた。
本格的な冬が到来し、夜は震えあがるほど寒い。昼間はあれほど晴れていたのに、夕方に雪が舞いはじめたかと思うと一気に冷え込んできた。
部屋には電気ストーブが備えつけてあるものの、型が古いせいか、なかなか温かくならない。冷たい指先に息を吐きかけながら、深雪はふと雪の舞う窓の外を眺める。
(もうすぐクリスマスか……この季節になると思い出すな。《ウロボロス》が壊滅した日のことを)
あの日も今夜と同じように、街には雪が舞っていた。あれから二十年という月日が経っているが、《冷凍睡眠されていた深雪にとっては、つい二・三年前の出来事だ。
あの頃のことはよく覚えている。緊迫しつつも、どこか平穏な日常が同居していた街の空気。仲間がいる安心感と、何処にも行けない閉塞感が混じり合ったカラオケ店、《ピアパルク》。チームメンバーが増えるにつれ、次第に攻撃性を増していった《ウロボロス》。
どれも脳裏に鮮明に浮かんでくることばかりで、過去にするにはあまりにも早すぎる。
その記憶に思いを巡らせるたび、深雪は郷愁にも似た切なさと、身を切り刻まれるほどの罪悪感を覚えるのだった。
北斗政宗―――六道からの話はまだ無い。彼は今、何を思っているのだろう。六道もこの雪を見て《ウロボロス》を―――二十年前のあの日々を思い出しているのだろうか。彼にとって《ウロボロス》とは何だったのだろう。
そんな事を考えながらベッドに腰かけていると、入口の猫扉がパタンと音を立てて開いた。深雪が《東京中華街》から戻って、わざわざ取りつけたものだ。その小さな扉から赤い首輪をした黒猫が我が物顔で入ってきて、その拍子に首元の鈴が「ちりん」と揺れた。
「にゃーお」
出会ったばかりの頃は毛玉のように小さかった黒猫も、今ではだいぶ大きくなった。長い尻尾をピンと立て「ててて」と近づいて来ると、ベッドにジャンプし、深雪の膝に断りもなく飛び乗ってくる。
「あ、おい」
深雪の反応などお構いなしに、黒猫はそのまま膝の上で丸くなると「グルールグルール」と喉を鳴らしながらくつろぎはじめる。深雪はくすりと笑い、黒猫の背中を撫でてやった。
「やれやれ……相変わらず自由気ままな奴だな。……それで? 《東京中華街》の様子はどうだった、エニグマ?」
深雪の呼びかけに応えるように、黒猫の体から黒い靄が染み出てきて、宙を漂いながら徐々に人の形を為してゆく。
まるで幽霊のような半透明な影が部屋の真ん中に浮かび上がったかと思うと、そこに現れたのは全身が黒づくめの、ひょろりとした印象の男だった。
黒いハンチング帽に黒いサングラス、細い手足を際立たせるかのような黒いタートルネックのセーター。《監獄都市》でも屈指の腕を誇る情報屋は、深雪の目の前でニヤリと不気味な笑みを浮かべる。
「いやあ、参りましたよ。《東京中華街》の周囲は驚くべきスピードで巨大バリケードが築かれ、猫の子一匹通さないような厳戒態勢でしてね。まあそれも、私には何の対策にもならないのですが。なにせこの私、ある程度の大きさの動物なら何でも憑りつくことができるのですから!」
エニグマは口を開くなり、立て板に水のごとくまくし立てつつ、やたらと芝居くさい大袈裟な仕草で訴える。
「まず猫からカラスへと憑依し、空から《東京中華街》に侵入した後、《レッド=ドラゴン》の雇った作業員へと住み処を変え、あの手この手で相手を翻弄しながら包囲網を突破し、誰にも気づかれることなく街の内情を調査してやりましたよ‼ ああ残念だ! 雨宮さんにも是非、この私の華麗かつ完璧な活躍を見ていただきたかったのに!!」
その凄まじい自己陶酔っぷりに、いつものこととはいえ深雪はドン引きしてしまう。
「そ……そうか、お疲れさま。でもまずは調査内容のほうを教えてくれないか?」
するとエニグマは「ポン」と軽快に手を打つ。
「ああそうでした、これは失敬! さて《東京中華街》ですが……街の復興は順調に進んでいますよ。もっとも紅家と関連するもの―――紅龍芸術劇院や紅龍大酒店、紅龍タワーといった紅家繁栄のシンボルだった施設はどれも解体され、影も形もありませんがね」
「紅家は六華主人を輩出した、《東京中華街》でも絶大な影響力を持つ一族だったからな。紅神獄の残滓を取り除き、紅家の裏切りを人々に見せしめる狙いもあるんだろう……街の人たちの様子はどうだった?」
「表面的には穏やかですよ。当主を失った白家も、予想よりはずっと落ち着いています。ただ、締めつけは格段に強まっていますね。まだ観光客も戻っていませんし、《東京中華街》らしい活気は皆無です」
「聞いている限りだと良い雰囲気じゃなさそうだな……。紅神獄の存在も、彼女が成し遂げた功績も、街の繁栄すら無かったことのように扱われて……これが彼らの望んだ『未来』なんだろうか」
真澄は全面抗争を回避し、《東京中華街》を守るために、その身を犠牲にしたというのに。それを考えると深雪は疑問を吐き出さずにはいられない。
しかし、それを聞いたエニグマは、からりとした口調で答えた。
「言っても始まりませんよ。この世には理論理屈では片付かないものが数多く存在します。例えば、この私がそうであるように」
「エニグマ……」
「……雨宮さんもご存じでしょう? 私の肉体は失われ、今や髪の毛数本とわずかな爪の欠片を残すのみです。それでも私はこの世に存在している。私という存在が何であるのか……たとえ世界で最も優秀な科学者を連れてきたとしても解明することは不可能でしょう。この世には未知の現象が溢れています。いわんや人の心をや、ですよ」
それとこれとは簡単に並べられないのではないか。そう思う一方で、「そういうものかもしれない」とも納得してしまう。
「……エニグマが言うと説得力があるな」
「そうでしょう?」
エニグマはにんまりと笑って、何故か得意げに胸を反らした。深雪も釣られて少しだけ笑ったが、すぐ真面目な顔へ戻って話を切り替えた。
「新しい六華主人は黄雷龍だと噂で聞いたけど、本当なのか?」
「ええ、そのようですね。しかし彼はまだ年若く、経験不足なため、実権は黒家当主である黒蛇水が握っています。いわゆる傀儡政権というやつですね」
「そうか……黄雷龍はもともと将来を有望視されていた人物だけど、こんなに早く六華主人になるとは本人も想像してなかっただろうな……」
深雪も《中立地帯の死神》の後継者になると決心するまでいろいろと思い悩んだから、黄雷龍の境遇が他人事とは思えない。同情まじりにつぶやくと、エニグマは意味ありげに肩を竦める。
「それだけならまだいいのですがねえ……」
「何か問題があるのか?」
「大ありですよ。黄雷龍は六華主人となる際、紅家の家人を粛清しています。それも戦闘員のみならず、非戦闘員にまで手をかけたとか……《東京中華街》の人々はそのことを良く思っていないようですね。今は街の復興と恐怖から黄雷龍への不信感をどうにか呑み込んでいますが、あの様子ではいつか必ず爆発するでしょう」
「そんなに深刻なのか……?」
「一番の問題は、混乱を望む者があの街に潜んでいるということです。それが何者なのか……雨宮さんはお判りでしょう?」
もちろんすぐにピンときた。
「黒蛇水の体を乗っ取っている悪魔のことだな」
深雪がその事実をオリヴィエから知らされたのは、《東京中華街》を脱出しようという間際のことだ。深雪は火澄の救出で手一杯だったし、オリヴィエや奈落も疲弊していて、あれ以上はとても戦える状況ではなかった。
おまけに大規模サイバー攻撃によって通信網が遮断されており、互いに連絡を取り合えなかったことも災いした。結果として悪魔は野放しとなり、《東京中華街》の未来に暗い影を落としている。
「悪魔がいる限り、またいつ《東京中華街》が混乱してもおかしくない……俺たちに何かできることはないのか?」
「さあ、どうでしょう……もともと《レッド=ドラゴン》は外部の干渉を受けること良しとしません。それに《東京中華街》を囲う巨大バリケードが完成してしまえば、今まで以上に互いの行き来は困難になるでしょう」
「こちらからは手も足も出せないってことか……。当分は何か変わったことがないか注視しつつ、様子を見守るしかないな……」
東雲探偵事務所の《死刑執行人》が完全復帰に至らない現状では、《東京中華街》に立て籠もった悪魔を排除する余力などどこにもない。だから、今はどれだけ歯痒くても事態を静観するしかなかった。それが悪魔の狙いだと分かっていても。
深雪は溜め息をついたあと、目の前に立つエニグマを見上げる。
「ありがとう、エニグマ。所長には俺のほうから報告しておくよ」
「左様ですか。それでは御用の際はいつでも声をおかけください。このエニグマ、雨宮さんの命令を遂行することは無上の喜びでございますから!」
その針金のような細長い体をぐいんと曲げ、エニグマは大きく身を乗り出してくる。そのあまりの距離の近さに、深雪は思わず仰け反ってしまった。
「そ……そう。そんなに期待されると逆に引くんだけど……」
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